浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その3〜

江戸時代前期に活躍した歌人戸田茂睡の墓。

戸田茂睡の墓

2011年8月7日撮影。都教委設置の説明板の内容は次のとおり。

都旧跡 戸田茂睡墓

所在 台東区浅草2丁目7番31号 浅草寺奥山庭苑内

指定 大正8年10月

元禄時代の歌人。はじめは渡辺氏を称し、のち戸田茂睡に改めた。名は馮、後に恭光、通称は茂右衛門。露寒軒などと号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第六男として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。その後は那須黒羽で暮らし、のち本多政長に仕えて300石を給されていた。延宝年間の末致仕し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を著して和歌の制の無用を説き、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)4月14日、年78で歿した。「紫の一本」「御當代記」「隠家百首」「鳥の迹」などの作品がある。なお

  塵の世をいとふ心の積りては

   身の隠れかの山となるらん

とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。

昭和43年3月1日 建設

東京都教育委員会

 力くらべ大会で持ち上げられた石。どれもかなり重そうだが、昔の人達もかなりの力自慢がそろっていたらしい。

力石 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は次のとおり。

力石

力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。

正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。

金龍山 浅草寺

江戸前期、三匠と呼ばれた俳人、西山宗因・松尾芭蕉・榎本其角の句が刻まれている碑。

三匠句碑 

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

三匠句碑(さんしょうくひ)

台東区浅草2丁目3番浅草寺

ながむとて花にもいたし頸の骨   宗因

花の雲鐘は上野か浅草か   芭蕉

ゆく水や何にとどまるのりの味   其角

江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。

西山宗因(にしやまそういん) 慶長10年(1605)肥後(熊本県)の生まれ。後、大坂に住み談林の俳風を聞く。この句は『新古今集』にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。天和2年(1682)没。

松尾芭蕉(まつおばしょう) 正保元年(1644)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、『おくのほそ道』は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄7年(1694)大坂で没。

榎本其角(えのもときかく) 寛文元年(1661)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永4年(1707)の没。

碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年(1894)春の移築の由来が記されている。

平成8年3月

台東区教育委員会

明治期に慈善事業に尽力した瓜生岩子の銅像。

瓜生岩子女史銅像 

2011年8月7日撮影。

瓜生岩子女史銅像

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

瓜生岩子女史の銅像

台東区浅草2丁目7番

岩子は通称。正しくは”岩”という。文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生まれたが、9歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を務める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。

明治30年4月19日、福島で没す。享年69。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。

平成8年7月

台東区教育委員会

BRONZE STATUE OF URYU IWAKO

Uryu Iwako was born in Kitakata, Fukushima prefecture on February 15, 1829. Iwako was her popular name, and her real name was Iwa. At the age of nine, she lost her father, and her mother went back to her parents’ home together with Iwa. When she was 14, she was entrusted to her aunt, and was educated by her uncle-in-law, who was a doctor in the Aizu clan.

After the Meiji Restoration, she exerted efforts for the education of young girls in the Aizu clan and also established the Fukushima Relief Facility for the assistance to the poor and orphans. She also founded the midwifery research institute and the Saisei Hospital in Kitakata, thereby promoting social work. She died in Fukushima on April 19, 1897. To praise the good conduct of Iwa, who devoted her whole life to charitable work, this bronze statue of her was erected here in April 1901.