分倍河原と新田義貞

府中市分倍河原駅南口のロータリーに設置されている新田義貞公の銅像。馬にまたがり剣を振りかざした勇猛な姿を表現している。

新田義貞といえば鎌倉末期の討幕の武士として知られている。(司馬遼太郎の『義経』ではあまり良いイメージではなかったような気がするが・・・)

穏やかなここ分倍河原が、鎌倉時代の命運を分けた激戦の地であったことは想像するのが難しい。

分倍河原と新田義貞

2011年1月28日撮影。

分倍河原と新田義貞

2011年1月28日撮影。

府中市設置の説明板の内容は次のとおり。

この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。

元弘3年(1333)5月8日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉討幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌9日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月11日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。

同月15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、掘兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。その夜、掘兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒濤の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛戦である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。

こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。

制作は、我が国彫刻界の重鎮で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。

この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。

 昭和63年5月

府中市