中山峠と切り掛けのオンコ

中山峠の頂上、トンネル手前に函館バス停留所がある。その奥には、「中山峠」と「切り掛けのオンコ」、2つの説明板が設置されている。

昔から渡島と檜山を結ぶ動線であり、切り掛けのオンコと呼ばれる木も大切な目印の役目を果たしていたとか。

2012年10月8日訪問。

北斗市教育委員会設置説明板の内容は次のとおり。

中山峠(江差山道)

函館・江差間の国道227号は、渡島と桧山を結ぶ動脈である。江差山道開削には、嘉永6年(1853年)、市渡の大悲庵・道仙と木間内(厚沢部)の麓長吉、安政4年(1857年)、江差の鈴鹿甚右衛門、明治3年(1870)、現如上人が、それぞれ挑み、改良を加えている。

この間、明治元~2年(1868~69年)には箱館戦争があり、緒戦を制した榎本軍は山道沿いに塹壕を築いた。乙部、江差から反撃に転じた新政府軍の進撃を、土方隊が台場山で食い止め激しく戦った。しかし、榎本の命で五稜郭へ退却した。

明治14年(1881年)2月、江差爾志郡役所の清水三四郎は用務で函館へ赴き、帰途、吹雪にあい遭難した。その死を悼み天狗岳の麓に碑が建っている。

山道は旅人の難所であったが、明治19年(1886年)、道庁は2年をかけ官営事業として初めて江差山道の大改修をした。その様子は沢田雪渓が描いた石版画により、旧新道路の比較ができ、つぶさに観察できる。

昭和41年(1966年)には、新中山隧道の完成とアップダウンの解消など改良を加え、舗装を施し、函館江差間は整備された。

平成13年10月 大野町教育委員会

 

切り掛けのオンコ

ここ中山隧道バス停から約500メートルほど江差方向に進むと、右側の小高い丘になっているところにあるオンコの木を「切り掛けのオンコ」という。これは明治2年(1869年)現在の『市渡村絵図』(大野町教委所蔵)に記されており、ここが駅逓で大野側と檜山側の郵便物交換場所であった。オンコはその目印であったと言い伝えられている。

江差山道は、渡島と檜山の交通上の要路であり、山道を開くために多くの人たちが挑んでいる。最初に挑んだ人は、市渡・大悲庵(円通寺の前名)の庵主・道仙と木間内(厚沢部)の旅籠屋の主人・麓長吉である。安政元年(1845年)のことであるが、資金難と人手不足で工事途中で挫折したという。その後、安政5年に鈴鹿甚右衛門と長坂庄兵衛が総工費800両、道幅2間(約3.6メートル)、延長43kmを完成した。これらの工事は、いずれも宗教家または篤志家の社会奉仕的事業で実現した。

江差山道の画期的工事は明治18年に起工され、翌年11月に開通した官営の工事である。この大工事後いくばくもなく大野新道が開通し、渡島・檜山が一連ルートで結ばれ、現在の国道227号として現出したものである。

「切り掛けのオンコ」は、現在のように道路が整備されない時代の文書交換の貴重な場所と注目され、当時が偲ばれるものである。

平成14年8月 大野町教育委員会


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