鹿島神社と本郷

北斗市の鹿島神社。文化年間以降にこの地に置かれたものと考えられている。この神社の社務所付近にあったとされるのが旧本郷小学校。記録が少なく「幻の学校」と呼ばれていたらしい。大野小学校が現在地に移転したことにより、本郷小学校は廃校になったようだ。

鹿島神社

鹿島神社

鹿島神社

2013年4月21日訪問。鳥居の手前及び境内にそれぞれ北斗市教育委員会による説明板が設置されている。その内容は次のとおり。

 本郷村

本郷村の起源は大野の水田の歴史でもある。

『休明光記』に「すなわち丑年(文化2年)より開発せしむるに、その年一年に功を成すこと新田百五十町歩、田九十町歩字申庚塚・五十町歩字文月」とあり、これだけの大きな面積の開田は蝦夷地で初めてのことだった。

本郷の地名の由来は、庚申塚のあったところとなっている。『新撰北海道史』にも「庚申塚のち本郷と称す」と記載されており、庚申塚が建てられたのは寛政8年(1796年)で、文化2年の大開田より9年前のことである。

鹿島神社が寛政年間(1789~1800年)の鎮座となっており、このころから人家も増えたものと考えられる。

明治33年(1900年)に大野村へ統一され、昭和7年(1972年)の字名改正までは8つの字があった。同年、本郷、細入、白川の3つの字が制定された。

平成15年8月 大野町教育委員会

旧本郷小学校

本郷小学校は、これまで開校と廃校の記録だけで、幻の学枚であったが、『新大野町史』編さんに伴う調査で沿革誌や卒業証書が発見され、存在が明らかになった。

この学枚は明治17年(1884年)9月、大野小学校から独立、分離し、同32年の廃校まで、およそ16年間、独立校として存在した。校区は本郷、白川地区を中心とした当時の本郷村で、校舎は鹿島神社社務所付近にあったと伝えられている。

明治19年の『公立本郷小学校沿革誌』によると、この年の入学者は男子10名、女子2名、退学者は男女

各1名で、秋季定期試験受験者は男子25名、女子3名、計28名とあり、相当数の生徒が通学していたことがわかる。教員には、五十嵐量平や高橋松三郎がいた。

廃校の理由には、大野小が明治30年10月、現在の役場所在地から現在地に移転し、通学が容易になったことが考えられる。廃校によって本郷小の児童は、鹿島神社横の通りで分断され、大野村側は大野小へ、市渡村側は市渡小へと通うことになった。

平成16年11月吉日 大野町教育委員会

鹿島神社と庚申塚

鹿島神社の起源についてはつまびらかではない。市川十郎の『蝦夷実地検考録』では寛政年間(1789~1801年)とし、村史では文政年間(1818~30年)となっている。この地が文化年間(1804~18年)に箱館奉行の手で水田の開発が行われたころは、庚申塚と称されていたので、鹿島神社の鎮守はその後であろう。

文化2年(1805年)箱館奉行の大開田が行われ、同時に民間人の白川伊右衛門(相馬藩士)も開田に努力しているが、数年で病没、兄の伊左衛門が後を継ぎ、箱館奉行の援助で水田開発を完成した。これを基盤として本郷村が形成された。

鹿島神社の祭神は、武甕槌大神である。農村には稲荷神社が多いのに、本郷だけに鹿島明神が奉祀されたのは異様であるが、本郷村の開祖と関係ある白川一族の渡来先の因由に基づくものであると考えられる。境内にある庚申塚は、大野で一番古いもので、寛政8年(1796年)に建てられた。当時の11名の有名人の名が刻まれている。

庚申信仰は、庚申の年に禁忌を要求したもので、村のはずれや辻に建てられたといわれている。

平成3年5月 大野町教育委員会


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