旧国技館跡

両国と言えば相撲、そして国技館。現在の国技館は両国駅の隣にあるが、もともとは少し異なる場所にあったとのこと。現在の回向院の隣辺りである。

旧国技館跡

2011年3月6日撮影。説明板の内容は以下のとおり。

旧国技館跡

旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)です。

ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。

東京大空襲まで、3度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和58年(1983)に解体されました。

左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。

ぶらり両国街かど展実行委員会

両国シティコアビル中庭の旧土俵位置

2011年3月6日撮影。両国シティコアビル中庭の円形。これが当時の土俵の位置を示しているらしい。

旧国技館跡

旧国技館跡

2011年3月6日撮影。墨田区教育委員会の説明板。内容は以下のとおり。

国技館(大鉄傘)跡

所在地 墨田区両国2丁目8・9番

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保4年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。

国技館は、この回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、1万3千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。

相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58年(1983)に解体されました。そして同60年(1985)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。

大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。

平成20年3月

墨田区教育委員会