意富比神社

旧大野町の中心にある意富比神社。現在の北斗市総合分庁舎の向かい側。

幕末の動乱においても激戦の地となった。

意富比神社

2007年3月11日撮影。この巨木も由緒あるもの。北海道設置の説明板の内容は以下のとおり。

意富比神社環境緑地保護地区

この地区は、イチイ・スギ・カツラ等の大径木からなる面積約0.5ヘクタールの境内林です。

地区内には、大野町開拓の歴史を物語る推定樹齢360余年のイチイがあり、昭和47年3月に道条例に基づく記念保護樹木に指定されている等、市街地周辺の環境緑地として維持することが必要な樹林地として、住民に親しまれています。

昭和63年5月26日指定

北海道

 

意富比神社の水松記念保護樹木

大野町には、江戸時代初期の頃から人々が住みはじめ、寛文9年(1669)の頃、既に家が20軒ほどあったとされています。

このイチイはその頃植えられたもので、大野町の350年の歴史を物語る古木として指定されました。

昭和47年3月25日指定

北海道

意富比神社

2007年3月11日撮影。

意富比神社

2007年3月11日撮影。

意富比神社

2007年3月11日撮影。北斗市設置の説明板の内容は以下のとおり。

箱館戦争と意富比神社の戦い

明治元年(1868)旧10月20日旧幕府軍は、森町(鷲ノ木)に上陸し、本隊は箱館(現函館)に向かい、分隊は峠下コースを進軍し、10月24日午前7時頃、風雪の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のため向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊を阻もうとする官軍藩兵とが市渡で遭遇戦になり意富比神社境内を中心に戦闘になり白兵戦になりました。

しかし、作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃し、約1時間の戦いであった。この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたってもえあがり、強い北風にあおられて十数件が焼失しました。

村民は銃声や火災に逃げまどった。両軍の死傷者はかなりの数であっただろう。官軍の墓だけでも10以上になっている。

なお、意富比神社のイチイの木にも弾痕がある。

平成4年10月

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

意富比神社

2007年3月11日撮影。この忠魂碑に係る説明板の内容は以下のとおり。

意富比神社の忠魂碑

日露戦争後、各地に戦死者の慰霊碑が建てられた。郷土でも明治44年(1911)11月、在郷軍人会が村民有志の協力を得て、向野の観音山に忠魂碑を建立した。

観音山は、それ以前から馬頭観音祭に併せて消防組が花相撲を行うなど、村民集いの場であったが、忠魂碑が建ってからは慰霊祭も行われ、さらに賑わいが増したという。

忠魂碑は昭和42年(1967)、遺族会が参拝しやすい場所に移そうと会員から資金を集め、観音山から意富比神社境内へ移設された。基礎の台は新設され、日露戦争に太平洋戦争までの戦没者を加え、あらためて字別に224名の戦没者の姓名碑を両側に並立した。

太平洋戦争では、特に中国、南方方面ではおびただしい数の人が犠牲となり、激しい沖縄での戦いや函館湾の連絡船空襲などで、郷土からも多くの戦死者を出した。

碑前で行われる慰霊祭は、かつて「忠魂祭」や「戦没者慰霊祭」と呼ばれていたが、現在は「平和祈念祭」と名を変え、遺族会が主催して毎年6月20日、戦死者の冥福を祈るとともに、平和を願ってしめやかに行われている。

平成18年3月吉日

北斗市教育委員会