土方歳三最期の地碑と猿田彦塚

函館市総合福祉センター「あいよる21」。

あいよる21の正面側広場に、土方歳三最期の地碑がある。

猿田彦塚

2007年3月17日撮影。猿田彦塚について書かれた函館市設置の説明板の内容は次のとおり。

猿田彦塚の碑

昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていた。

猿田彦塚は、文化14年(1817年)、一本木付近に建立され、「天保九年御巡見要用録」という記録書には、箱館村と亀田村との教会標であったと記されている。

この塚は以前、旧若松小学校西側の鶴若稲荷神社の境内にあったが、鶴若稲荷は昭和20年に疎開のため移転し、取り壊された跡には家屋が建ち、塚は無くなり見つからなかった。

しばらくして、昭和31年に付近の民家の庭から字を刻んだ猿田彦塚の破片の一部が発見された。

ここに在る2つの碑は、発見した石の破片を使用して昭和33年に猿田彦塚を復元したものである。

塚の表面には「猿田彦大神、鈿女命、右箱左亀」また、側面には建立年と、向かって左の小碑に一部復元してある文字が刻まれていた。

猿田彦と天鈿女命(あめのうずめのみこと)とは夫婦であり、猿田彦は道案内の神として知られている。

函館市

土方歳三最期の地

2007年3月17日撮影。一本木関門。

土方歳三最期の地

2007年3月17日撮影。土方歳三最期の地碑。函館市設置の説明板の内容は以下のとおり。

土方歳三最期の地

新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後新撰組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。

明治元年(1968年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。

翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・大野町)だけは最後まで落ちなかった。

しかし、同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。

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