岐雲園跡

江戸後期に外国奉行として、各国との折衝を行い活躍した岩瀬忠震。今でいう外交官である。

彼が晩年を過ごしたのが岐雲園である。

岐雲園跡

2011年5月5日撮影。現在ではマンションやスーパーの立ち並ぶ一画に、岐雲園跡を示す説明板がひっそりと設置されている。

岐雲園跡

2011年5月5日撮影。ライフの向かいにある。

墨田区教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

岐雲園跡(きうんえんあと)

所在 墨田区墨田1丁目4番

岐雲園は、広さ約500坪(1650㎡)、河水を引いた汐入りの池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震(ただなり)が、自分の所有する画巻の筆者、明の魯岐雲にちなんで名付けました。

忠震は、目付・外国奉行として幕末の外交に尽くした人で、海外事情に精通して早くから開国政策を唱え、各国との交渉に多くの業績を挙げましたが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼と意見を異にして職を免ぜられました。憂憤の彼は、ここ岐雲園で退隠生活を送り、再び世に出ることもなく、風雅な生活を楽しみました。忠震の号である「鷗所」は隅田川に翔ぶ都鳥にちなんでつけたといい、文久元年(1861)44年の生涯を閉じました。近くの白鬚神社には彼の顕彰碑「岩瀬鷗所君之墓碑」が永井介堂の碑文で建てられています。この介堂は、永井尚志といい忠震とともに幕政、外交に力を尽くした人で、晩年を岐雲園で送り、この地で没しています。

幸田露伴の長兄、成常も岐雲園に住み、露伴自身が居住した時期もあります。また、北千島開拓で有名な海軍大尉郡司成忠は露伴の次兄で、千島に出発の前夜である明治26年3月19日の夜、別離の宴を催したのもここでした。

平成15年3月

墨田区教育委員会