平河山 法恩寺

墨田区太平町にある日蓮宗の寺院、法恩寺。

かつては皇居付近にあり、20ヶ寺の小寺院や別院を敷地内に有するほどだったとのこと。

ちなみに、このあたりの住所が太平町となったのも、この寺院の開基である「太田道灌」の「太」と、山号である「平河山」の「平」とをあわせたものらしい。

法恩寺

2011年5月8日撮影。蔵前橋通り側からの寺院への入り口。由緒は以下のとおり。

日蓮宗 平河山 山内寺院案内

法恩寺

千栄院

陽運院

法泉院

善行院

[沿革]

法恩寺 開山 本住院日住上人 開基 太田道灌公

道灌公は長禄2年(1458年)凡そ540年前、江戸城(現在の皇居)築城の折、城内鎮護の祈願所として、当山を平川村(現在の皇居・平川門付近)に建立、京より日住上人を迎え、開山とする。建立の地をとって、山号を平河山(平川)と号す。

時移り、徳川家康公江戸幕府を開くにあたり、慶長10年(1605年)神田柳原へ移転。その後、慶安2年(1649年)谷中清水町へ移り、元禄8年(1695年)幕府の命により、現在地に移された。

現在塔中は4ヶ寺であるが、元禄当時は、20ヶ寺を擁したと伝えられる。

当地を太平町と称するのは、太田道灌公の 太 及び平河山の 平 を合わせたものである。

大正大震災、昭和20年3月10日の戦災に遭遇、2度焼失、昭和29年10月現在の堂宇が建立された。

維時 平成10年3月彼岸の佳日

法恩寺

2011年5月8日撮影。現在も塔中の並ぶ法恩寺ストリート。奥にはスカイツリー。

法恩寺

2011年5月8日撮影。本堂境内への入り口。案内板によると、鬼平犯科帳の舞台にも登場する寺院とのこと。

法恩寺とは

長禄元年(1457年)江戸平河に本住院と称し、太田道灌公によって創建されました。

その後1524年道灌の孫、資高が現在の寺名「法恩寺」に改めました。

豊臣秀吉公や徳川家康公もお立ち寄りになられ、鬼平犯科帳の舞台にも登場する由緒ある寺です。

法恩寺

2011年5月8日撮影。開基である道灌公祈念碑。この碑の横にある由緒説明書きの内容は以下のとおり。

日蓮宗平河山法恩寺縁起

開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。道灌公長禄2年(1458年)江戸城築城に当り丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主となり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。山号を平河山と称するのは、当時この附近を平河村と称したによるものである。当山には秀吉家康共に小憩され、又、朱印地も与えられた。

家康江戸城に入り、城内拡大に当って当山は神田柳原谷中清水町にと移され、元禄8年現在の地に移されたのである。当時塔中20ヶ寺、末寺11ヶ寺、関東の触頭として威勢を誇った。当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山号平河山の頭文字をとって名付けられた。当山は関東大震災、昭和20年3月の戦災に遭遇するも壇信徒並地元の外護により再建され昭和29年10月現在の本堂落成をみたのである。経石塔(三重塔)は昭和7年宗祖650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造当時新様式鐘楼として名高いものである。

法恩寺

2011年5月8日撮影。

法恩寺

2011年5月8日撮影。境内にある花塚。花を祭ったものとのこと。「花塚の記」の記載内容は以下のとおり。

花塚の記

花を愛する心は人生をいつくしむ心と同じである

四季おりおりの花は社会や時代を選ばず自然を美しくいろどっているがけがれたところに其の花は咲かない 日本人は花にさまざまな思いを託してきた 神を祭 仏に供えることから装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴するものである

古人も花塚を築き花供養を営んだが昭和37年9月中村理運氏の発願により花の道につながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして秋の彼岸には花供養が営まれている 敬虔な人々の心はまた美しい日本の花である

昭和46年9月 銭〓書

法恩寺

2011年5月8日撮影。境内にある平川清水稲荷。由緒板の内容は以下のとおり。

平川清水稲荷縁起

当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるゝ清流あって人呼んで小川の清水と云い道灌公も是を愛でゝ

武蔵野の 小川の清水 絶えやらで 岸のねせりを洗いことすれ

と詠まれている 当時その小川の畔本住院(当時の旧称)の側に稲荷の祠が祭られていて 平川清水稲荷を称えられていた 現在法恩寺境内にその碑柱が伝わって由緒を物語っている

法恩寺

2011年5月8日撮影。道灌公の供養塔。

教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

太田道灌家供養塔

所在 墨田区太平1丁目26番16号 法恩寺内

太田道灌は室町時代の武将で、永享4年(1432)関東管領扇ヶ谷上杉氏の執事資清の子として相模に生まれました。歌人として、万里集九との交遊も知られています。幼名を鶴千代麿、源六郎と称し、成人してからは、持資、資長と改め、備中守正五位下までのぼり、剃髪して道灌と号しました。道灌は、扇ヶ谷上杉定正に仕え、文武両道を修め、康正2年(1456)江戸城を築きここを居城としました。彼は、築城にかけても名手で、河越、岩槻の2城も築きました。また、足軽の用い方にもすぐれていたといわれます。文明18年(1486)主君定正は、道灌の名声をねたんだ他の家臣たちにそそのかされて、相模糟屋の自邸に道灌を誘い出し、謀殺しました。享年55歳でした。

この法恩寺はもと江戸平河町にあり、道灌が江戸築城のとき建立したものといわれ、道灌とゆかりが深く、子孫によって供養塔が築かれました。

平成18年3月

墨田区教育委員会