榎本武揚の像

墨堤通り沿いの都営住宅群のなかに設置されている榎本武揚の像。

函館、道南にもゆかりの深い人物。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。像正面。「正二位 勲一等 子爵 榎本武揚像」とある。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。正面下方から。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。「昭和41年1月28日改修 東京都 墨田区役所」。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。像の背面。軍服の裾の造形も見事。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。像の脇に立てられた石柱碑。「誠」の字が刻まれている。

榎本武揚の像

2011年6月19日撮影。「誠」の字は、「鈴木貫太郎 書」。鈴木貫太郎は、海軍軍人であり、第42代内閣総理大臣を勤めた人物である。

再掲となるが、墨田区教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

榎本武揚の像

所在 墨田区堤通2丁目26番3号 梅若公園内

武揚は、天保7年(1836)下谷(現台東区)の通称三味線堀に生まれました。天性聡明で学問を好み、昌平黌で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学びました。幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、オランダ人教官より洋式海軍技術・蒸気機関・機械製造等を習得、当時未知の学問であった化学までも学びました。さらに文久2年(1862)にオランダに留学、国際法規も修めました。帰国後、軍艦奉行や海軍副総裁へと昇進、幕府海軍の柱となります。幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館の五稜郭に拠り、薩長軍と戦いますが敗れて捕えられます。しかし、明治新政府内に彼の人物を惜しむ声が強く、明治5年許されました。当時難問とされた樺太帰属問題解決のため、海軍中将・特命全権公使としてペトログラードに派遣され、みごと交渉に成功します。その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功により子爵を授けられました。晩年は向島に住み、墨堤を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同41年に73歳で死去しました。隅田公園内の「墨堤植桜之碑」や多門寺の「毘沙門天」の標石等、武揚の筆跡が区内の所々に残されています。

平成18年3月

墨田区教育委員会

コメント

  1. Tsu55 より:

    この榎本武揚像は隅田川の河口側を向いて立っていますよね。きっと、その先にある海=海外を見ているのだと思います。(少し下流の墨田区役所脇にある勝海舟像も海側を向いて立っています)
    最後まで官軍に抵抗して、短期間ですが「蝦夷国」の総裁になるなど道南にゆかりの深い人物ですね。

  2. kiichi.murata より:

    おっしゃるとおり河口を向いております。海を見るよう設置されたというのは合点がいきますね。新政府でも重用されたあたり、かなりの人物だったことがうかがい知れます。