根津神社

相当な由緒がある根津神社。徳川将軍家とのつながりも深い。

 

2012年2月19日撮影。

 根津神社

根津神社

根津神社

根津神社

根津神社

 

文京区教育委員会による説明板の内容は次のとおり。

 

根津神社

国指定建造物

文京区根津1-28-9

日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに六代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。五代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営した。

社殿は拝殿・本殿と両者を接続する弊殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。

祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公である。

境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民族文化財)、「塞の大神碑」などがある。

—郷土愛をはぐくむ文化財—

文京区教育委員会

平成10年3月

 

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赤穂浪士ゆかりの寺〜観音寺〜

この寺は、もともと長福寺と称されていたが、享保元年(1716年)に現在の観音寺に改称したとのこと。本堂右手には赤穂浪士慰霊塔と伝わる塔が残されている。

 

2012年2月19日撮影。

 観音寺

赤穂浪士慰霊塔

台東区教育委員会による説明板の内容は次のとおり。

 

赤穂浪士ゆかりの寺

台東区谷中5丁目8番28号 観音寺

赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。

47士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。

寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作『元禄快挙録』には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。

本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、47士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山の名を刻む。

 平成16年3月

台東区教育委員会

Temple noted in connection with the 47 akoroshis

47 akoroshis are widely known in Japan through the story “Chushingura” which describes 47 samurais of Ako ( present Hyogo prefecture ) who avenged their master Asano Naganori by making a raid on his foe Kira Yoshinaka. Two of 47 Akoroshis, Chikamatsu Kanroku Yukishige and Okuda Sadaemon Yukitaka, were brothers of Bunryo who was studying at this temple. Bunryo later became the 6th head bonze of this temple and was named the Great Bonze Chozan.

Bunryo is said to have done all he could to help Akoroshis and it is said that they held many meetings at this temple. The book called “Genroku kaikyoroku” written by Fukumoto Nichinan in the late Meiji period mentions that Kanroku left his last words “Please tell Bunryo in the Chofukuji Temple that I am willing to give my life to avenge the death of my master today”. This temple was originally called the Chofukuji Temple and was renamed the Kannonji Temple in 1716.

The pagoda to the right of the main hall is known as a memorial tower of Akoroshis and people still visit it today. On the upper part of the pagoda was engraved Sanskrit words that stand for the Buddhas in the north, the south, the east and the west. On the lower part, Hokyoindaranikyo ( a sutra ) and on March in 1707, the name of the 6th Head Bonze of this temple Chozan was engraved.

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大黒天経王寺

谷中銀座を日暮里駅方向に進み、階段を上ったところにあるのが経王寺。幕末の動乱の痕を残している。

 

写真は2012年2月19日撮影。

大黒天経王寺 

荒川区教育委員会による説明は以下のとおり。

 

大黒天経王寺

経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。

慶応4年(1868)の上野戦争のたき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。

荒川区教育委員会

 

荒川区指定文化財 経王寺山門 付門

天保7年(1836)に、桶屋安五郎らが願主となり建立された。切妻造、桟瓦葺、総欅造の薬医門で、脇に瓦屋根付きの板掘と潜り戸を設け、西側には門番所が連結される。間口寸法(親柱間)10尺9寸、奥行寸法(親柱・控柱間)7尺6寸と、堂々とした規模をもち、脇に付設された門番所と併せて日暮里の寺町地区を象徴する「辻」の景観を形成する貴重な建造物である。また、慶応4年(1868)の上野戦争の際のものと伝えられる弾痕が残っており、地域の歩んだ歴史も刻まれている。

 

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