新宿御苑旧洋館御休所

新宿御苑管理事務所の隣にある趣のある洋館。皇室の御休所として建てられたものらしい。

写真はいずれも2012年1月29日撮影。

 

新宿御苑旧洋館御休所

 

新宿御苑旧洋館御休所

 

新宿御苑旧洋館御休所

 

新宿御苑旧洋館御休所

 

新宿御苑旧洋館御休所

 

説明板の内容は次のとおり。

 

新宿御苑旧洋館御休所

この建物は皇室の御休所として宮内省内匠寮により設計され、明治29年(1896年)に建設された木造平屋の建物で、1860年代から1890年代にアメリカの住宅建築を中心に流行したスティック・スタイルを基調とした現在では希少な洋風木造建築である。

切妻屋根、十字形の装飾のついた切妻、張り出した軒、斜めの腕木で支えられたポーチ屋根などの特徴がある。

大正後期の文献資料から当時の活用状況が示されており、和洋渾然一体となった調度や飾り付けの様子もうかがえる貴重なものである。

 

創建 明治29年(1896)

増築・模様替 明治42年(1909)

模様替 大正10年(1921)

増築・模様替 大正11年(1922)

増築・模様替 大正13年(1924)

保存補修 平成11〜12年度

 

規模・構造形式

木造平屋建:480.08㎡

屋根スレート葺及び亜鉛鉄板葺

面積:480.080㎡

間口:31.815m

奥行:23.640m

棟高:6.990m

軒高:4.960m

 

国民公園 新宿御苑

 

新宿御苑

大都会のど真ん中にある大自然。都内にいることすら忘れてしまう。

寒かった。

 

新宿御苑 

2012年1月29日撮影。

 

新宿御苑

2012年1月29日撮影。冬の新宿御苑内広場。

新宿御苑についての説明は以下のとおり。

 

新宿御苑のルーツ

新宿御苑の敷地は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷地の一部です。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青海街道になる江戸から西に伸びる街道と鎌倉街道が交差する要所でした。このため、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたものとされます。

現在、大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772年)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園、「玉川園」の一部です。

国民公園 新宿御苑

 

新宿御苑

 

分倍河原と新田義貞

府中市分倍河原駅南口のロータリーに設置されている新田義貞公の銅像。馬にまたがり剣を振りかざした勇猛な姿を表現している。

新田義貞といえば鎌倉末期の討幕の武士として知られている。(司馬遼太郎の『義経』ではあまり良いイメージではなかったような気がするが・・・)

穏やかなここ分倍河原が、鎌倉時代の命運を分けた激戦の地であったことは想像するのが難しい。

 

分倍河原と新田義貞

2011年1月28日撮影。

 

分倍河原と新田義貞

2011年1月28日撮影。

 

府中市設置の説明板の内容は次のとおり。

 

この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。

元弘3年(1333)5月8日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉討幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌9日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月11日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。

同月15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、掘兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。その夜、掘兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒濤の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛戦である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。

こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。

制作は、我が国彫刻界の重鎮で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。

この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。

 昭和63年5月

府中市