諸宗山回向院

両国駅の南側、京葉道路沿いにある回向院。多くの震災被害者等が眠っている。また、相撲との関わりの深さを示す力塚という碑もある。

 

回向院

2011年3月6日撮影。回向院入り口。

 

回向院説明板

2011年3月6日撮影。回向院の由緒が記された説明板。内容は以下のとおり。

 

諸宗山回向院(エコウイン)

明暦3年(1657年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立された

本尊 阿弥陀如来 東京都重要文化財指定

安政大地震(1855年)の死者2万5千人余を初めとして

江戸府内の無縁佛、天災地変に因る死者も埋葬され

近くは大正12年の関東大地震の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されています

江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある

明暦3年 大火石塔

安政2年 大地震石塔

鼠小僧次郎吉墓

水子塚(寛政5年)松平定信建立

猫に小判の話 猫塚

勧進相撲発祥の地記念 力塚

呼び出 定火消墓 木遣塚

諸動物供養塔

竹本義太夫墓

岩瀨京傳 京山 加藤千陰墓

 

回向院説明板

2011年3月6日撮影。回向院説明板。内容は以下のとおり。

 

回向院

明暦3年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有り様でした。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。

有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。

ぶらり両国街かど展実行委員会

 

回向院参道

2011年3月6日撮影。回向院の参道。

 

力塚

2011年3月6日撮影。相撲との関係の深さを示す力塚。

 

相撲関係石碑群<力塚>

所在 墨田区両国2丁目8番 回向院

墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。

天保4年(1833)10月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。

明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。

力塚は、昭和11年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。

現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。

平成11年3月

墨田区教育委員会

 

回向院内

2011年3月6日撮影。

 

慰霊碑説明板

2011年3月6日撮影。回向院内の供養碑に係る説明板。内容は以下のとおり。

 

<墨田区登録文化財>石造海難供養碑

所在地 墨田区両国2丁目8番10号 回向院

回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に6基の海難供養碑を見ることができます。

6基のうち3基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸時代の白子港は、木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していました。

 

1「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔文化10年(1813)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政3年(1856)に再建。正面の名号は増上寺66世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。

2「溺死四十七人墓」明治2年(1869)、函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩(現熊本県)のお雇い蒸気船が上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没し260余名が亡くなりました。そのうち、富岡文吉らが知る47名を供養するために建立しました。

3「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔文化11年(1814)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現愛知県西尾市平坂町)2港に属する溺死者のために建立しました。名号は徳本の書です。台座部分には中村仏庵の撰書により、天明2年(1782)の大黒屋光太夫の一件から、文化11年に至る海難小史が綴られています。

4「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」安政4年(1857)4月20日に紀州大川浦(現和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗組員7名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現静岡県牧之原市)で溺死しました。彼らを供養するために、江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人たちが世話人となり建立しました。

5「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」寛政元年(1789)、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑です。帆の正面には犠牲者7名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。

6勢州白子戎(えびす)屋専吉船溺死者等供養塔文政8年(1825)の伊豆神津島(現東京都神津島村)沖の溺死者のために建立されました。のちに、天保、安政の遭難者名を追刻しました。

平成23年2月

墨田区教育委員会

 

 

これらのほか、回向院境内には岩瀬京伝、岩瀬京山の墓、加藤千蔭の墓、石造明暦大火横死者等供養塔がある。

これらの由緒については境内に東京都教育委員会設置の説明板があったため、その内容のみ以下のとおり紹介する。

 

東京都指定旧跡

岩瀬京山墓

所在地 墨田区両国2-8-10 回向院内

指定 昭和18年5月

江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して凉仙と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政5年(1858)9月24日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。

なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。方半居士、覧山の別号がある。

昭和62年3月20日建設

東京都教育委員会

 

 

東京都指定旧跡

岩瀬京伝墓

所在地 墨田区両国2-8-10 回向院内

指定 昭和18年5月

江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。

彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の名で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家として地歩を築いたが寛政3年(1791)風俗を乱すものとして手鎖50日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。

著書には「仕懸文庫」「孔子縞于時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化13年(1816)9月7日歿。年57。

昭和62年3月20日建設

東京都教育委員会

 

 

東京都指定旧跡

加藤千蔭墓

所在地墨田区両国2丁目8番10号 回向院内

指定 昭和18年5月

江戸中期の国学者、歌人。芳宜園(はぎぞの)と号し、千蔭は名。耳梨山人、逸楽窩、江翁などとも号していた。通称加藤又左衛門といい、能因法師の末裔だという。父は江戸の与力として八丁堀に住み、千蔭は父から歌を学んだ。また賀茂真淵に師事し、のち父の職を継いだ。天明8年(1788)病気のため職を辞し、学問研究に専念した。老境に入っていよいよ研さんを積み、著書は世に千蔭本と呼ばれて流布した。博識をもって世に知られ、かつ著書「万葉解」は高く評価されて幕府から賞されたという。また、絵を建部綾足に学び人びとは争ってこれを求めたという。文化5年(1808)9月2日歿。年75。著書には「万葉集略解」「万葉新採百首」「香取日記」その他多い。

昭和62年3月20日建設

東京都教育委員会

 

 

東京都指定有形文化財(歴史資料)

石造明暦大火横死者等供養塔 一基

所在地 墨田区両国2-8-10 回向院内

指定 昭和45年8月3日

明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。

もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に立てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものとおもわれる。

総高3.05メートル、延宝3年(1675)頃建立された。願主は回向院第二世住持信誉貞存。

昭和62年3月20日建設

東京都教育委員会

 

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旧国技館跡

両国と言えば相撲、そして国技館。現在の国技館は両国駅の隣にあるが、もともとは少し異なる場所にあったとのこと。現在の回向院の隣辺りである。

 

旧国技館跡

2011年3月6日撮影。説明板の内容は以下のとおり。

 

旧国技館跡

旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)です。

ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。

東京大空襲まで、3度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和58年(1983)に解体されました。

左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。

ぶらり両国街かど展実行委員会

 

両国シティコアビル中庭の旧土俵位置

2011年3月6日撮影。両国シティコアビル中庭の円形。これが当時の土俵の位置を示しているらしい。

 

旧国技館跡

旧国技館跡

2011年3月6日撮影。墨田区教育委員会の説明板。内容は以下のとおり。

 

国技館(大鉄傘)跡

所在地 墨田区両国2丁目8・9番

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保4年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。

国技館は、この回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、1万3千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。

相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58年(1983)に解体されました。そして同60年(1985)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。

大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。

平成20年3月

墨田区教育委員会

 

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吉良邸跡

両国の京葉道路沿い、本所警察署を過ぎた辺りに忠臣蔵で有名な吉良邸跡を示す標識が設置されている。

実は以前に免許証の住所変更のため本所警察署を訪ねた際に見つけていたもの。そのときには吉良邸跡に寄ることができなかった。

 

吉良邸跡案内板

2011年3月6日撮影。吉良邸跡まで約100mを示す案内板。内容は以下のとおり。

 

 

吉良邸跡

ここから、約百メートル先になまこ壁に囲まれた東京都指定史跡「吉良邸跡」があります。元禄15年(1702)12月14日、赤穂四十七士が討入ったところで、「忠臣蔵」で知られるところです。

現在、吉良邸跡は墨田区の本所松坂町公園として保存されています。昭和9年(1934)地元両国三丁目町会有志が発起人になって、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、同年3月に東京市に寄付し貴重な旧跡が維持され、昭和25年(1950)9月に墨田区に移管されました。

毎年12月14日、義士討入りの日には、両国連合町会主催の「義士祭」、12月の第2または第3土曜日・日曜日には両国3丁目松坂睦主催の「吉良祭」や地元諸問屋出店の「元禄市」が開催され、大変な賑わいを見せます。

吉良邸跡保存会

 

 

標識に従って進み入ると、住宅地の一角にひっそりとした吉良邸跡が現れる。

 

吉良邸跡

2011年3月6日撮影。住宅地の一角にある吉良邸跡。本所松坂町公園として整備されている。

墨田区の説明板の内容は次のとおり。

 

 

本所松坂町公園由来

所在地 墨田区両国3丁目13番9号

面積 97.56平方メートル

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。

その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現、両国2、3丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。

昭和9年3月地元町会の有志が、遺跡を後生に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和25年9月墨田区に移管されました。

周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。

墨田区

 

 

吉良邸跡なまこ壁

2011年3月6日撮影。なまこ壁。

 

吉良邸跡なまこ壁

2011年3月6日撮影。

 

吉良邸跡碑

2011年3月6日撮影。「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」の碑。

 

吉良邸跡内部

2011年3月6日撮影。吉良邸跡内部。なまこ壁面には、資料が展示されている。

 

吉良上野介義央像

2011年3月6日撮影。吉良上野介義央の像。入ってすぐ正面にあるため、結構驚かされる。

 

吉良邸跡内部案内板

2011年3月6日撮影。吉良邸跡内部に設置された説明板。内容は以下のとおり。

 

 

吉良邸跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は約2550坪(約8400平方メートル)だったとされています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。

吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刃傷事件の数ヶ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に新邸を与えています。討入りは翌元禄15年12月14日ですから、1年半に満たない居住でした。

園内には、吉良上野介の首を洗った井戸を再現したり、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

 

 

吉良邸跡内部

2011年3月6日撮影。吉良家、家臣二十士碑。

 

吉良上野介義央公

2011年3月6日撮影。「追慕 吉良上野介義央公」碑。

 

松坂稲荷大明神

2011年3月6日撮影。松坂稲荷大明神。説明板に書かれた由来は以下のとおり。

 

 

松坂稲荷大明神由来

『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座されました。

墨田区文化観光協会

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