石川啄木一族の墓

石川啄木一族の墓 函館市
撮影:2022年10月9日
石川啄木一族の墓
撮影:2022年10月9日
石川啄木一族の墓
撮影:2022年10月9日

■碑文

(表)
啄木一族墓
啄木
東海の
小島の磯の
白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

(裏)
これは嘘いつはりもなく正直にいうのだ
「大丈夫だよしよしおれは死ぬ時は函館
へ行って死ぬ」その時斯う思ったよ何
処で死ぬかは元より解った事ではないが
僕は矢張死ぬ時は函館で死にたいよう
に思う君 僕はどうしても僕の思想が時代
より一歩進んでいるという自惚をこのご
ろ捨てる事が出来ない

明治三十四年十二月二十一日
東京本郷弓町二の十八 石川啄木
郁雨兄

出典:南北海道の文化財

石川啄木一族の墓
撮影:2022年10月9日

   石川啄木一族の墓
 明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40年(1907年)5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言うほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年(1912年)4月病魔におかされ、27歳の生涯を東京で閉じた。大正2年(1913年)3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月、彼の後を追うかのようにこの世を去った。
 大正15年(1926年)8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、現在は啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。

函館市

   Ishikawa Takuboku’s Family Grave
Ishikawa Takuboku, a renowned but unhappy poet of the Meiji era (1868-1912) had a close connection with Hakodate. Although he was here for only a short time – May to September 1907 – he flourished in the warm support of a literary group called “Bokushukusha”, and enjoyed living with his wife Setsuko and their young family.
Ishikawa liked the people and atmosphere of Hakodate so much that he once remarked, “I’d like to die here in Hakodate…” However, tuberculosis brought his life to a premature end in April 1912, in Tokyo.
In accordance with his wife wishes, Ishikawa’s ashes were returned here in March 1913. Sadly, Setsuko passed away only a month or so later, as if to follow her husband.
In August 1926 this grave was erected by Miyazaki Ikuu, his brother-in-law, who was also a poet, and Okada Kenzo, the chief of Hakodate Library. Ishikawa, his wife, their three children, and his parents are all laid to rest here, within earshot of the Tsugaru Strait.

CITY OF HAKODATE

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