観音山

観音山 北斗市
撮影:2020年6月7日

北斗市向野の観音山(標高144.4m)に、この地域で最も古いものと伝わる馬頭観音が祀られている。放牧馬に対する熊の被害が多かったことに因むものらしい。明治44年には日露戦争戦死者忠魂碑が建てられ、毎年献納された花相撲は地域の人々に親しまれた(忠魂碑は、昭和42年に意冨比神社境内に移設されている。)。また、天保飢饉の際には、観音山の蕨やどんぐり等により多くの人々が飢えをしのいだとの記録が残されている。

観音山
撮影:2020年6月7日
観音山
撮影:2020年6月7日

観音像の奥に写っている小屋の中に馬頭観音像が安置されている。

馬頭観音像
撮影:2020年6月14日

『新大野町史』における馬頭観音の由来に係る記載は、次のとおり。

一 慧日山 光明寺
昭和十二年(一九三七)、新たに大野村史の編さん計画があった際、当時の住職冨田来学から村当局に寄せられた史料には次のように記されている。
(略)
付属二 馬頭観世音菩薩
 ①本尊 馬頭観世音菩薩
 ②由来 文化年間創立、観音山ハ元牧場タリシガ、熊・狼ノ害多ク困難セリ。依ッテ大野・文月・市渡三村ノ有志之ヲ憂ヒテ建立シ、且村民風雨ノ際避難所トナセリ。凶作ニ際シテハ該山野ニ入リ、蕨ノ根ヲ掘リテ之ヲ食シタリト云フ。村民ハ益々信仰ノ念ヲ厚クシ、明治五年七月有志ノ寄付ヲ以テ再建スルニ至レリ。

大野町史編さん委員会編『新大野町史』、北斗市、2006年、pp.727-728

なお、上記中「凶作ニ際シテハ該山野ニ入リ、蕨ノ根ヲ掘リテ之ヲ食シタリト云フ」は、天明・天保の飢饉を表しており、天保飢饉時の様子が「松前天保凶荒録」に記録されている。

松前天保凶荒録」 における観音山に係る記載は、次のとおり。

   同郡大野一渡本郷文月千代田一本木六村
天保四及七両年ノ凶荒ハ第一気候不順ニシテ日々風雨寒気甚シク、就中東風、北風最モ害ヲナセリ。作物ハ当時多ク蕎麦・大小豆・粟・麦・其他馬鈴薯ノミニテ、水田モ多少アリシカト只稗ヲ植付シ迄ニテ皆不熟ナリシ。右ノ景況故当地人民ハ勿論近接ノ漁夫ニ至迄当村エ来リ字向野観音山ニ於テ蕨ノ根ヲ堀リ採リ澱粉ヲ製シ又ハ「シダメ」胚ヲ拾ヒ各冬期ニ際シ渓澗ノ枯蕗等ヲ取リ之ヲ食シ終ニ生命ヲ保チシ(略)

「松前天保凶荒録 ( 14 / 49 ページ)」、北海道大学北方資料データベース、閲覧日2021年8月26日

現地に設置されている大野町教育委員会(当時。現、北斗市教育委員会。)による説明板。

観音山(説明板)
撮影:2020年6月7日

   観音山
 観音山は向野279-1に位置し、標高144.4mの山である。
 観音山の名称の由来は、馬頭観音を祭ったことによりはじまると言われており、郷土の馬頭観音の中で一番古いものであると言われている。
 光明寺に残る古文書によると、大野・市渡・文月の三村が放牧場として貸付を受けた歴史は古く、文化年間(1804~18年)頃と解される。
 放牧の馬に対しては熊による被害が多く、熊から馬を守るために馬頭観音を祭ったのが観音山の歴史の始まりで、明治以後は、村の人々の和楽の場ともなって親しまれている。この地より大野平野を一望することができ大変風光明美な場所である。

大野町教育委員会(平成3年5月)

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