大野養蚕場跡

大野農業高等学校 2020/05/24

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明治8年、開拓使は、大野村向野(現北斗市向野)に大野養蚕場を開設した。のちに徳川義礼に貸し付けられ、徳川農場と呼ばれた。大野養蚕場時代に囲いとして築かれた土塁や境界に植えられた黒松並木は、現在も大野農業高等学校敷地内にその姿をとどめている。

説明板

大野養蚕場跡
 向野の地には、自生している桑の木があったことから、この北海道でも養蚕をやれないかと、当時の開拓使長官黒田清隆は、判官松本十郎に具体的に計画を立てさせ実行させたと伝えられている。
 明治3年(1870)養蚕事業は札幌の桑園とここ向野が選ばれた。面積はほぼ33ヘクタールで4年(1871)に始まったが、6年(1873)には業績が上がらず中止となった。
 明治8年(1885)七重勧業試験場の属地として大野養蚕場が開設され継続された。15年(1892)開拓使が廃止になり、明治19年(1896)以降、八雲の徳川義礼に払い下げられ大野養蚕場として運営され、その後徳川農場の名のもとに農家の副業として昭和の初めまで細々と続けられた。関東方面に「蝦夷の花」というネイミングで出荷された。
 徳川農場は土塁と樹木で整然と区画され、330ヘクタールを擁していた。かつては、大野町民の憩いの場、あるいはグランドとして利用されたこともあった。現在は平坦部の大部分は、道立大野農業高等学校地になっている。また人々は徳川農場と呼んだり、桑園通りともいわれている。
 平成12年8月 大野町教育委員会 平成18年2月1日より北斗市教育委員会

北海道大学 北方資料データベース

大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市

大野養蚕所(場)の設置
 前幕領時代から本道に自生する桑を生かして養蚕を試みる者があったが、成功しなかった。この地で養蚕が本格化したのは、開拓使が設置されてからである。この養蚕の構想は、開拓使長官黒田清隆によるものといわれ、その計画は、判官松本十郎によってなされている。
 明治3年(1870)、開拓使によって大野村に養蚕所が設けられ、岩鼻県(群馬県)から3名が来て養蚕の指導にあたった。福島県から購入した蚕卵紙3万枚を管下に配布するなど、民間の奨励にも努めたが振るわず、同6年の冬中止となった。
 同8年、開拓使は再び大野村の向野に養蚕場を設置し、旧庄内藩(現在の酒田・鶴岡地方)の技術者73名が大野村で桑畑の開墾にあたった。開墾面積は30ヘクタール余りで「大野養蚕場」と呼ばれた。その時に養蚕場の囲いとして築かれた土塁や境界に植えられたヒノキ・黒松並木が今も残っている。
 これに呼応して、同13年、西川初蔵と品川市郎の呼びかけで、観音山の南側ふもと一帯に村民の協力を得て桑畑を造成を行った。同15年、開拓使が廃止され、19年北海道庁時代に入ってから、この地域は徳川義礼に貸し付けられ、徳川農場となった。
 同15年、八雲の徳川開墾場が徳川農場となってからは、大野の養蚕も姿を消してしまった。(大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市 p.137)

○ 桑畑の造成
 明治13年、西川初蔵と品川市郎が村に呼びかけ、村民の協力をえて行った。同8年に酒田県の青年70余名が、現在の大野農業高校の敷地30余町歩を耕し、64,700有余の桑を植えた。養蚕は前途有望と見込まれていたので、これに呼応した人も多く、観音山の南側一帯にも桑の苗が植えられた。不幸にして山火のため焼失してしまい、その労は報いられなかったが、以来、この地帯の開発は進んだ。(大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市 p.139-140)

その他

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