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「松前天保凶荒録」函館県編

北海道大学北方資料データベースにて天保期の凶荒の惨状を記録した「松前天保凶荒録」が公開されている。当時の道南各地の状況がよくわかる貴重な資料である。元の記録の成立は明治19年だが、公開されている資料は大正4年に河野常吉が写したものらしい。

画像データを見ながらテキスト化したものを以下にリンクしたWikiページにアップした。入力に際して、旧字体、異体字等表記の平仄のとれていない箇所、誤字、誤読が多々あると思われる。あらかじめ御了承いただきたい。また、読めない箇所は「■」とした。お気付きの点等御指摘いただきたい。


大野農業高校に残る土塁

土塁

土塁

土塁

土塁

大野農業高校に残る土塁は、庄内で養蚕事業に実績のあった榊原十兵衛らが明治8年春から秋にかけて築いたものである。

説明板

土塁
 明治三年開拓使は、この地に養蚕所を設け桑園を開いた。
 ここは、開拓使長官黒田清隆の要請で酒田の士族が開墾にあたったところであり そのとき表門のあった場所で当時ここには大きな「とびら」が設けられこれをはさんで土塁がつくられていた。
 この土塁は、山形の鶴岡藩士である榊原十兵衛、水野重敬等六十五名が、明治八年五月から九月下旬までかかって築造したもの

 開拓使時代の桑園跡として名残りをとどめている本道唯一の土塁となっている。

昭和五十六年十月二十四日
北海道大野農業高等学校同窓会

観音山

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山の馬頭観音像

北斗市向野の観音山(標高144.4m)に、この地域で最も古いといわれる馬頭観音が祀られている。放牧馬に対する熊の被害が多かったことに因むものらしい。明治44年には日露戦争戦死者忠魂碑が建てられ、毎年献納された花相撲は地域の人々に親しまれた(忠魂碑は、昭和42年に意冨比神社境内に移設されている。)。また、天保飢饉の際には、観音山の蕨やどんぐり等により多くの人々が飢えをしのいだとの記録が残されている。

説明板

観音山
 観音山は向野279-1に位置し、標高144.4mの山である。
 観音山の名称の由来は、馬頭観音を祭ったことによりはじまると言われており、郷土の馬頭観音の中で一番古いものであると言われている。
 光明寺に残る古文書によると、大野・市渡・文月の三村が放牧場として貸付を受けた歴史は古く、文化年間(1804~18年)頃と解される。
 放牧の馬に対しては熊による被害が多く、熊から馬を守るために馬頭観音を祭ったのが観音山の歴史の始まりで、明治以後は、村の人々の和楽の場ともなって親しまれている。この地より大野平野を一望することができ大変風光明美(ママ)な場所である。
平成3年5月
大野町教育委員会

『新大野町史』の記載

一 慧日山 光明寺
昭和十二年(一九三七)、新たに大野村史の編さん計画があった際、当時の住職冨田来学から村当局に寄せられた史料には次のように記されている。
(略)
付属二 馬頭観世音菩薩
 ①本尊 馬頭観世音菩薩
 ②由来 文化年間創立、観音山ハ元牧場タリシガ、熊・狼ノ害多ク困難セリ。依ッテ大野・文月・市渡三村ノ有志之ヲ憂ヒテ建立シ、且村民風雨ノ際避難所トナセリ。凶作ニ際シテハ該山野ニ入リ、蕨ノ根ヲ掘リテ之ヲ食シタリト云フ。村民ハ益々信仰ノ念ヲ厚クシ、明治五年七月有志ノ寄付ヲ以テ再建スルニ至レリ。
(大野町史編さん委員会編『新大野町史 第7編 宗教』北斗市 p.727-728)

「松前天保凶荒録」の記載

同郡大野一渡本郷文月千代田一本木六村
天保四及七両年ノ凶荒ハ第一気候不順ニシテ日々風雨寒気甚シク、就中東風、北風最モ害ヲナセリ。作物ハ当時多ク蕎麦・大小豆・粟・麦・其他馬鈴薯ノミニテ、水田モ多少アリシカト只稗ヲ植付シ迄ニテ皆不熟ナリシ。右ノ景況故当地人民ハ勿論近接ノ漁夫ニ至迄当村エ来リ字向野観音山ニ於テ蕨ノ根ヲ堀リ採リ澱粉ヲ製シ又ハ「シダメ」胚ヲ拾ヒ各冬期ニ際シ渓澗ノ枯蕗等ヲ取リ之ヲ食シ終ニ生命ヲ保チシ(略)

北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (14 / 49 ページ)
北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (14 / 49 ページ)


八郎沼

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

「自治制施行百周年記念 昭和55年10月17日 大野町長 小西恒藏」とある。

北斗市向野の八郎沼公園は、明治13年に山田致人が乳牛の飲み水用に池を掘ったのが始まりで、その後中村長八郎が養鯉場として修築し現在に至る。八郎沼の八郎は、中村長八郎の名に因むものである。

説明板

八郎沼公園の由来
八郎沼のおこりは、明治13年の頃 山田致人(現愛媛県生)が、隣接向野の観音山附近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯わえたものであったが、その後中村長八郎が、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築したものが今日の沼の原形となり地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。又、公園は昭和50年から大野町が構想を樹て総合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が高まっている。
大野町教育委員会
大野町観光協会
平成18年2月1日より北斗市

八郎沼公園
 八郎沼の起こりは、明治13年山田致人「弘化3年伊予国(現愛媛県)生まれ」が向野の観音山で酪農を始めたことにある。乳牛頭数5頭、うち4頭は雌であったという。致人が牛に水を飲ませるために池を掘って水を貯えたもので、それが水田の用水ともなった。後年、中村長八郎氏が修築し、養鯉場や水田かんがい用のために造ったのがこの沼であり、長八郎氏の名前にちなんで「八郎沼」と名付けられたといわれている。昭和50年頃から町が公園用地として総合公園をめざして整備に着手し、現在では「八郎沼公園」として、近郊の市町村や多くの町民に広く親しまれ、憩いの場に利用されている。
平成2年6月
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/06/06)

中村長八郎

慶応3(1867)年生まれ。明治37年、38歳のときに道議会議員に当選。大野出身で最初の道議会議員となる。昭和6年没。
(大野町史編さん委員会編『新大野町史 第12編 人物』北斗市 p.1096-1097)

その他

厚沢部町郷土資料館石井です。厚沢部町郷土資料館では、2013年11月19日から12月30日まで町の開拓功労者である山田致人の展示を行っています。昨年、修理...

大野養蚕場跡

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

明治8年、開拓使は、大野村向野(現北斗市向野)に大野養蚕場を開設した。のちに徳川義礼に貸し付けられ、徳川農場と呼ばれた。大野養蚕場時代に囲いとして築かれた土塁や境界に植えられた黒松並木は、現在も大野農業高等学校敷地内にその姿をとどめている。

説明板

大野養蚕場跡
 向野の地には、自生している桑の木があったことから、この北海道でも養蚕をやれないかと、当時の開拓使長官黒田清隆は、判官松本十郎に具体的に計画を立てさせ実行させたと伝えられている。
 明治3年(1870)養蚕事業は札幌の桑園とここ向野が選ばれた。面積はほぼ33ヘクタールで4年(1871)に始まったが、6年(1873)には業績が上がらず中止となった。
 明治8年(1885)七重勧業試験場の属地として大野養蚕場が開設され継続された。15年(1892)開拓使が廃止になり、明治19年(1896)以降、八雲の徳川義礼に払い下げられ大野養蚕場として運営され、その後徳川農場の名のもとに農家の副業として昭和の初めまで細々と続けられた。関東方面に「蝦夷の花」というネイミングで出荷された。
 徳川農場は土塁と樹木で整然と区画され、330ヘクタールを擁していた。かつては、大野町民の憩いの場、あるいはグランドとして利用されたこともあった。現在は平坦部の大部分は、道立大野農業高等学校地になっている。また人々は徳川農場と呼んだり、桑園通りともいわれている。
 平成12年8月 大野町教育委員会 平成18年2月1日より北斗市教育委員会

北海道大学 北方資料データベース

大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市

大野養蚕所(場)の設置
 前幕領時代から本道に自生する桑を生かして養蚕を試みる者があったが、成功しなかった。この地で養蚕が本格化したのは、開拓使が設置されてからである。この養蚕の構想は、開拓使長官黒田清隆によるものといわれ、その計画は、判官松本十郎によってなされている。
 明治3年(1870)、開拓使によって大野村に養蚕所が設けられ、岩鼻県(群馬県)から3名が来て養蚕の指導にあたった。福島県から購入した蚕卵紙3万枚を管下に配布するなど、民間の奨励にも努めたが振るわず、同6年の冬中止となった。
 同8年、開拓使は再び大野村の向野に養蚕場を設置し、旧庄内藩(現在の酒田・鶴岡地方)の技術者73名が大野村で桑畑の開墾にあたった。開墾面積は30ヘクタール余りで「大野養蚕場」と呼ばれた。その時に養蚕場の囲いとして築かれた土塁や境界に植えられたヒノキ・黒松並木が今も残っている。
 これに呼応して、同13年、西川初蔵と品川市郎の呼びかけで、観音山の南側ふもと一帯に村民の協力を得て桑畑を造成を行った。同15年、開拓使が廃止され、19年北海道庁時代に入ってから、この地域は徳川義礼に貸し付けられ、徳川農場となった。
 同15年、八雲の徳川開墾場が徳川農場となってからは、大野の養蚕も姿を消してしまった。(大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市 p.137)

○ 桑畑の造成
 明治13年、西川初蔵と品川市郎が村に呼びかけ、村民の協力をえて行った。同8年に酒田県の青年70余名が、現在の大野農業高校の敷地30余町歩を耕し、64,700有余の桑を植えた。養蚕は前途有望と見込まれていたので、これに呼応した人も多く、観音山の南側一帯にも桑の苗が植えられた。不幸にして山火のため焼失してしまい、その労は報いられなかったが、以来、この地帯の開発は進んだ。(大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市 p.139-140)

その他


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