函館市一覧


函館大火慰霊堂、慰霊塔

函館大火慰霊堂は、大森公園内に昭和13(1938)年に完成。

昭和9年の函館大火の際、この慰霊堂の横を流れる亀田川において多くの凍死者、溺死者を出している。

函館大火慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面斜め

2008年7月6日撮影。

 

記念塔、慰霊塔、慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔〜下から

2008年7月6日撮影。

 

記念塔の板碑に刻まれている内容は以下のとおり。

 

函館大火災惨害記念塔建立由来

「昭和9年(1934年)3月21日夕刻に住吉町より発生した火災は、史上稀にみる烈風に煽られ市街地は一夜にして焼土と化し、その罹災者は約10万2千人を数える大惨事となり、死者行方不明者は2千8百28人を数えるに至った。
折悪しく、市街地を縦断する新川(亀田川)に掛かる、此処「大森橋」は渦巻き吹き上げ迫る猛火に逃げ惑い追われる人々が、唯一の避難路として殺到する中、その橋も瞬く間に炎焼し身動きとれぬ人々は、寒波厳しい横殴りの風雪を伴って、荒れ狂う浜風で怒濤逆巻く川に投げ出され高潮に呑まれるなどの惨状を呈し、一夜明けたこの川辺一帯は、溺死凍死焼死者が折り重なっての、悲惨壮絶を極めた受難の地と化していた。
この受難者の霊を慰め祀らんと、慰霊堂建設の計画が立てられ昭和12年(1937年)5月、市はその基礎工事に着手した。
この慰霊堂の建設に呼応し、在市の宮本武之助(函館商工会議所副会頭)は、慰霊堂と一対をなす、「五重の塔」(慰霊塔)の付設建立寄進を申し出、その許しのもと自らも私財を供し、宗教団体(京都を本拠に慰霊活動をする「弘安海」)の大きな協力を得るなどの奔走の中、この五重の塔の完成をみた。
因みに、この塔の材質は花崗岩を選び、京都の嵯峨・大覚寺に納められんとした由緒や、その秀れた石組みの技法など貴重にして高いものがあると云われ、船により運ばれ此の地において組立てられ建立を見たものである。
塔の最上五層の中軸柱の頂部中心には、水晶の珠を捧げ持つ精巧な青銅の龍神の彫像が祀られ、又、地下の基礎には全国から寄せられた叺(かます)が49俵の「写経石」がコンクリートと共に練り込み納められ、その安らかなる霊への哀悼が深くこめられ塔を支えている。
又、本堂たる慰霊堂はその基礎工事に着手はしたものの建築材料の暴騰によりその財源捻出に苦慮する中、思わぬ建設計画の遅れに悩む坂本森一市長に協力しこれにも宮本武之助は、その円滑なる事業の完成にと篤志の寄附を、自らの倹約励行をもって申し出るなど、慰霊堂の建設(総事業費約11万4千円)に大きな貢献をなしている。
かくして昭和13年(1938年)10月8日、本堂を埋める多くの人々の参列のもと、入仏落慶式がいとも厳粛な中、盛大に挙行され無事その完成をみたのである。」

あまたの御霊安らかにましませ

この記念塔建立由来板は、本塔の建立に多大な貢献をされた故宮本武之助氏長男である宮本徹也・靖子御夫妻が作製され、本市に寄贈されたものです。

平成13年(2001年) 函館市

 


函館 空港緑地 高松展望広場

空港緑地高松展望広場

2008年7月6日撮影。

函館空港滑走路に隣接した空港緑地。滑走路を模した水場、飛行機を象った噴水があり、家族連れの隠れ人気スポット。


ANAジャンボジェット機

2008年7月6日撮影。空港緑地と言うだけあって、離着陸のタイミングは絶好の飛行機ビューポイントに。

個人的には着陸時がお気に入り。ただし、函館空港の場合、その日の天候等によって離着陸の方向が異なるので、事前にチェックする必要有。


函館公園(2008年7月4日)

函館公園

2008年7月4日撮影。函館公園を展望できる東屋からの眺め。左に写るの遊園地「こどものくに」には日本最古の観覧車がある。

 

石川啄木の歌碑

2008年7月4日撮影。石川啄木の歌碑。これについての説明は歌碑の説明版をご参考に。(以下その引用。)

全国にある啄木歌碑で一番美しいできばえと言われているそうだが、本当か!?

 

石川啄木の歌碑

この歌碑は、啄木の青春のあしあと、青柳町時代を記念して昭和28年(1953年)4月に建立された。
全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの歌碑は、啄木の自筆を集字拡大したものであり、エキゾチックな風情とロマンをもつ街・函館をうたった歌として、広く市民に愛誦されている。
薄幸の詩人、石川啄木が函館に逗留したのは、明治40年(1907年)5月から9月にかけての僅か132日間にすぎない。この間、文芸同人苜蓿社の諸友に囲まれ、文学を論じ、人生を語り心安らぎつつも、自らの若さと夢を思い悲しんだ。

 

中空土偶のご案内

2008年7月4日撮影。函館公園内で博物館へ案内する中空土偶を象った標柱。

 

市立函館博物館

2008年7月4日撮影。市立函館博物館。相当年季の入った建物。

 

函館図書館

2008年7月4日撮影。函館図書館。現在は五稜郭公園の近くへ新築移転されている。

冬寒い図書館は今でも思い出に残っている。


旧函館博物館一号、二号

旧函館博物館一号

2008年7月4日撮影。旧函館博物館一号。地方博物館としては最古のもの。

案内板の内容は以下のとおり。

 

北海道指定有形文化財

旧函館博物館一号

指定年月日 昭和38年7月26日
構造 木造平屋建寄棟造瓦葺

この建物は、開拓使函館支庁が、北海道で発掘された考古資料やアイヌ民族資料、珍しい動植物などを広く収集して一般に展示公開するために明治12(1879)年に開場したもので、日本の地方博物館としては最も古い歴史があります。
明治初期に我が国に取り入れられた洋風建築のなかでも古い方に属し、当時としては珍しいアメリカ風の様式を取り入れています。
明治28(1895)年に函館区に移管され、その後「水産館」として資料を転じしていました。

 

旧函館博物館二号

2008年7月4日撮影。旧函館博物館二号。こちらも明治の洋風建築として、かなり古いもの。

案内板の内容は以下のとおり。

 

北海道指定有形文化財

旧函館博物館二号

指定年月日 昭和38年7月26日
構造 木造平屋建寄棟造杉厚柾葺屋根(現在トタン葺ペンキ塗)

右手にある一号館は明治12(1879)年に開拓使の廃止後、開拓使東京出張所仮博物場の収集資料を移管収蔵するために、函館県が明治17(1884)年に開館したものです。
明治28(1895)年に一号館とともに函館区に移管され、後に「先住民族館」として資料を展示していました。
函館県時代の官庁建築物としては、おそらく唯一のもので、また、現存する明治の洋風建築としては全国的にも古い方に属し、文化史的な意義も大きいものです。