北斗市一覧

千代田の忠魂碑と庚申塚

北斗市千代田。地名の由来と忠魂碑、庚申塚。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。忠魂碑。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。庚申塚。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。説明板の内容は以下のとおり。

 

千代田

千代田の開村は「大野村史」や「蝦夷実地検考録」にある千代田稲荷神社勧請の記録から、寛政年間(1789〜1800)と推定され、藤田家の記事にも「先祖藤田八五郎は、陸奥国軽米郡軽米村に生る。寛政元年本道へ渡り、本村に居住をぼくす」とある。

文化2年(1805)、大野平野一帯で幕府直轄による大開田が行われると、千代田でも文化元年に渡来した島津才兵衛が、同3年に南部八戸より農家12戸を募集して開墾している。また、文化2年には松前の富商・伊達林右衛門も同地で新田を耕し「伊達村ト唱フ后之ヲ千代田村ト改称ス」と「伊達家文書」にあるが、正確な場所はわかっていない。

千代田の言い伝えに鶴の飛来が多かったので、鶴田と称したとあるが、「蝦夷実地検考録」の記述から、江戸の千代田村にあやかって後の繁栄を願い、千代田と称するようになったと推定できる。寛政12年(1800)に幕府が米の試作を行った際に千代田という地名を使用しており、同年、蝦夷地を実測した伊能忠敬の地図にも千代田と記されている。

はじめ千代田郷と呼ばれ、明治6年(1873)に千代田村となった。同13年、大野ほか5か村の戸長役場が大野村に設置され、同33年に大野村に統一。全道から大野村ほか15か町村が1級町村に選ばれ、千代田村は「大野村大字千代田」となる。道道大野上磯線の旧道を堺に、西側を西川原、東側を東前谷地と呼び、ほかにも西川原通、川向ドドメキ、東前谷地通の5つの字があったが、昭和7年(1932)の字改正で千代田、東前の2字となった。昭和32年に大野は町制を施行し、平成18年(2006)2月1日、上磯町との合併によって北斗市となる。

 

平成17年5月末現在 千代田町内会

世帯数 120世帯  男 175人  女 221人  合計 396人

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

千代田と一本木の堺にあたるこの地に「忠魂碑」「庚申塔」と刻まれた2つの石碑がある。

忠魂碑には「明治44年(1911)3月10日建立 日露戦役戦死者 奉天旅順戦没 陸軍特務曹長 勲七等功七級 藤田弥三郎 建立 千代田在郷軍人」と刻まれている。

明治27年(1894)の日清戦争の戦死者は1万7千人を数え、同37〜38年の日露戦争でも日本は旅順攻撃、奉天会戦、日本海海戦などで勝利を収めたが、戦死者は11万8千人に上り、特に奉天、旅順での戦いは熾烈を極めた。

日露戦争後、時の西園寺内閣は、全国民の意識鼓舞と団結融和、戦死者の鎮魂を目的に、全国市町村に忠魂碑の建立を指示、千代田の忠魂碑もその時に建てられたものである。建立以来、8月25日の千代田稲荷神社祭典で、神事の前に碑前で祈年祭が行われている。

庚申塚は本郷、市渡、文月、千代田にあり、本郷が寛政8年(1796)建立で一番古く、2番目は文月の文化9年(1812)、千代田は嘉永3年(1850)である。

庚申は干支の60日または60年ごとに巡ってくる「庚申」のことで、信仰は中国の道教に始まったといわれる。人間には3つの悪い癖があり、これを3匹の虫にたとえ、この癖を改めさせるため「更新」とかけて庚申の日を謹慎日とした。三虫は体の中に住み、庚申の夜、寝ている間に抜け出して天帝(帝釈天)に罪を告げ、命を短くされるので、庚申の夜は虫が出ないように眠らずに慎んだという。奈良時代に日本に伝わり、室町以降、通行の安全や五穀豊穣、悪病退散など、ご利益や庶民の願いに変わると、江戸時代には村はずれや辻に塔を建てることが盛んになった。神道では申と猿を結びつけて猿田彦をまつる。

この場所は奥地(道央)へ往来する役人や探検家も通過した道で、道中の安全と村に災いが入らないことを祈願したものと考えられる。碑面には「庚申塔 嘉永三年八月、名主 島津才兵衛、大和屋○○、吉田弥四郎、藤田八五郎、安藤重吉、金濱丹治」とあり、名主以下の三役と千代田の重立人の名が彫られている。町人、百姓に苗字が許されなかった時代に、はっきりと姓名をつけているというのも見事な心意気といえる。

基礎は昭和30年(1955)に修理されたが、碑石は嘉永3年のままで、平成16年(2004)8月千代田の人たちは忠魂碑の基礎改修にあわせて、庚申塚の基礎も補修した。


一本木稲荷神社

北斗市一本木の稲荷神社。

由緒を記した説明板の内容は以下のとおり。

 

一本木稲荷神社

一本木稲荷神社は、「蝦夷実地検考録」によれば、八郎大明神稲荷神社が合祀されている。

八郎大明神の祭神大巳貴命(おうなむちのみこと)は、おおくにぬしのみことの別名であり、国土経営の神様である。少彦名命(すくなひこなのみこと)は、国土経営の任にあたり医療まじないの法をはじめた神ということになっている。稲荷社の祭神保食命と倉稲魂命についてはどちらも穀物をつかさどる神で、開拓を進める一本木村にふさわしい神々である。一本木の神社は、稲荷神社だけでなく、八郎大明神というものもあったので、検考録には2つ並べて書かれてある。2つということはもともと2つのおやしろが別々にあったのか、1つのおやしろに八郎大明神と稲荷社があったか、いずれにしても寛政中勧請とあることからみて、はじめから社を2つわけて建てたとは思われず、1つの社に合祀したものと考えられる。

また、平成6年8月に以前の鳥居か老朽化したうえ、神社前の道々大野上磯線の改良工事に鳥居の一部がかかったため、氏子らの寄付で建てられた。

平成7年12月

大野町教育委員会

 

一本木稲荷神社

2007年3月11日撮影。

 

一本木稲荷神社

2007年3月11日撮影。

 

手前には地域に貢献した下山家を称える一本木町内会設置の説明板も設置されていた。

内容は以下のとおり。

 

地域に根ざした人々と下山家

ここ一本木という地名の起こりは、一本のアカダモの大木から名付けられたものである。

一本気はかつて、松前藩時代から蝦夷地の陸路の交通の要所として栄えて来た地域でもあった。また、政治・経済・文化にも大きく関わってきたその街道が、かつて往年に当地の村の形成に大きく関わった有志下山貞吉外19人衆が力を合わせ今日の開墾及び開拓の礎となった。

下山家の初代孫四郎は文久年間青森県大巻村から一本木へ移住し、一本木の村用係をしていた。村用係は開拓時代の村々の重責を担っている地位であり、孫四郎は当村には重要な中心的人物だった。下山家は彼を初め代々地域の発展のために村の村会議員等要職を歴任し、活躍した家柄でもあった。

また、一本木地域は古くから米作りが盛んな所でもあり、早くから久根別川あるいは大沼の導水をいち早く着手した地域でもあった。

平成時代に入りこの道も交通量が著しく多くなり、古い道幅を拡張せざるを得なくなった。そこで下山家には道々756号大野上磯線の拡張工事を行った際、事業の推進に多大なる貢献をしていただき今日の道路の完成をみた。

また、地域町内会の人々はもちろんのこと各関係機関のご協力とご指導ご支援のもとに完成した。ここに多くの方々に深く感謝して、この偉業を永く後世に伝えていきたいと思います。

平成12年2月吉日

大野町一本木町内会

 


八郎沼公園(2004年)

2004年10月に訪問した八郎沼公園。まだ合併して北斗市になる前の旧大野町時代。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

当時設置されていた説明板。旧大野町教育委員会の設置。現在もあるかどうかは不明。

 

八郎沼公園の由来

八郎沼のおこりは、明治13年の頃山田致人(現愛媛県生れ)が、隣接向野の観音山附近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯わえたものであったが、その後中村長八郎が、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築したものが今日の沼の原形となり地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。又、公園は昭和50年から大野町が構想を樹て総合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が高まっている。

大野町教育委員会

大野町観光協会

 

 


葛登支の三木露風歌碑

平成15年(2003年)に建立された三木露風歌碑。葛登支稲荷の手前にある。

 

葛登支三木露風歌碑

2003年7月13日撮影。

 

葛登支三木露風歌碑

2003年7月13日撮影。碑の内容は以下のとおり。

 

はるかなる 岬の上に 立ちにける

白き燈台 日に輝けり

三木露風トラピスト歌集より

平成15年7月吉日

葛登支稲荷奉賛会 加藤 哲恵

上磯地方史研究会 有志一同

謹書 上磯町教育長 田中 則夫

故 工藤忠孝氏の遺志により建立

 



CEMENT

『CEMENT』吉村和敏,ノストロ・ボスコ,2010年。

12月12日に発売された太平洋セメント上磯工場の写真集を購入。セメント工場の力強さを感じることが出来る一冊。1つの工場だけで一冊の写真集となるのは、とても珍しいことらしい。

最近、工場に興味を抱く人が増えているらしい。アニメ、鉄道、歴史、次は工場のようだ。実は私もその一人。工場で稼働する機械、重機、パイプライン等は、見ていて飽きない。

 

セメント工場は、北斗市民には見慣れた工場で、見慣れすぎているため、あまり特別な思いをもつことも少ないだろうが、写真となった工場の姿は、きっと普段とは違って見えるはず。

 

CEMENT



有川大神宮

北斗市役所のすぐ隣にある有川大神宮。由緒については諸説あるようだ。

保存樹林ということで、境内の木々も相当な古さを感じさせる大木が多い。

 

有川大神宮

2010年1月4日撮影。

 

有川大神宮

2010年1月4日撮影。

 

北斗市設置の保存樹林に係る説明板の内容は次のとおり。

 

保存樹林

樹種 スギ・クロマツ・アカマツ・イチイ他 樹齢推定100年から350年以上

指定理由 有川大神宮は、応永2年(1395年)に九州秋月藩士の種田一族が蝦夷に渡り、この有川に居を構え神宮祠を祀ったのがはじまりで、慶長2年(1597年)伊勢神宮のご分霊を奉戴し神社として創建されたものです。境内の樹木の中には推定樹齢350年以上の大イチョウの木が健全としてあるなど樹木の集団として、貴重なものである。

指定番号 第1号

指定年月日 昭和62年3月31日

所有者または管理者 有川大神宮 宮司 種田一郎

北斗市


きじひき高原

北斗市の隠れ観光スポット「きじひき高原」。

天気の良い日には、駒ヶ岳、大沼、函館山が一望できる。さらには羊蹄山が見えることも。

 

きじひきから見る駒ヶ岳と大沼

2009年9月27日撮影。駒ヶ岳と大沼を一望す。

 

公共育成牧場サイロ跡

2009年9月27日撮影。旧大野町公共育成牧場サイロ跡。

 

きじひきの牛

2009年9月27日撮影。きじひき高原で預かっている牛。道路の近くまで来ていることもある。間近で見ると結構こわい。

 

きじひきから見える函館山

2009年9月27日撮影。きじひき高原から見える函館山。


北海道水田発祥の地碑

北海道の水田発祥について、発祥の地碑があるのは現在の北斗市である。

1番がどこかというのはどうでもよくて、北海道における米作りの先駆的な場所だったということが重要であると個人的には思っている。

現在では北海道米を代表する「ふっくりんこ」。これに繋がる道南における米作りの歴史。ここが面白いところ。

 

北海道水田発祥の地碑

2009年8月2日撮影。

 

北斗市教育委員会設置の説明板の内容は次のとおり。

 

 

北海道水田発祥の地碑
蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661〜72)貞享2年(1685)、元禄5年(1692)の記録がある。水田発祥の地碑は、元禄5年の「松前志」の記録と村民の伝承によって昭和24年(1949)に建てられた。
碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄5年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、450坪(約15アール)を開田し、道米10俵(現在の2俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
作右衛門の水田は2、3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2年(1805)には箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
嘉永3年(1850)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元年(1954)以降、米作りはようやく安定した。明治6年(1873)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったのである。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会
 
 

スポンサーリンク