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万平塚

場所は地蔵寺入り口。万平なる人物についての詳細は不明。

万平塚

万平塚

  • 2018年10月8日撮影。

説明板

万平塚

万平塚
石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。
ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。
一例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられてるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ…」などとある。
この塚は、大坂から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4(1915)年万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。
函館市

MANPEI’S GRAVE
Ishikawa Takuboku, a famous poet, once wrote a poem about a beggar walking around, muttering something precious and virtuous to himself. The beggar named Manpei was a popular figure who lived in Hakodate during the Meiji and early Taisho years.
He was a man of great spirit,and a good sense of humor, and he was never known to ask others for alms. Every morning he searched through garbage cans for food and wrote a simple description of each household he visited like a diary.
For instance, “November 1, 1906. Fine. First I went to rummage through the garbage can of Yamada Kunihiko (Mayor of Hakodate). Mr. Yamada’s wife, living a most civilized life, is as can be expected. Finding a piece of pork fat with some raddish peelings in the garbage, I suppose she is now learning Western cooking…”
When Fujioka Sobei, who was an ironmaster in Osaka, came to Hakodate on business, he asked Manpei to light his cigarette. He was rebuked for his impoliteness to have asked “Without taking off his hat” by Manpei.
Fujioka was so deeply impressed by Manpei’s character that after Manpei died in 1915 Fujioka built a grave stone for the repose of Manpei’s soul with the help of his friends in Hakodate.
CITY OF HAKODATE

場所


有無両縁塔

地蔵寺の入り口に建てられている有無両縁塔は、元治元(1864年)に、遊郭の経営者たちが引き取り手のない遊女などを供養するために合同で建立したものです。

有無両縁塔

有無両縁塔

有無両縁塔

有無両縁塔

  • 2018年10月8日撮影。

説明板

有無両縁塔

有無両縁塔
この「有無両縁塔」は、元治元(1864年)に、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。
かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5(1868)年に、その一画を山ノ上遊郭として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊郭も一層の賑わいをみせるようになった。
この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊郭で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。
函館市

MONUMENT OF UMU RYOENTO
This monument called “Umu Ryoento” was erected in 1864 in repose of abandoned women who worked in the “red light” districts. Funds for this monument were donated by those who managed prostitute houses.
In days gone by in a town called Yamanoue-cho (a neighboring area, now named Funami-cho), there was a lively red-light district. After the Hakodate magistrate granted a license and named this area the Yamanoue prostitute quarters in 1868 (Ansei 5), those houses renewed their quarters for the promotion of business.
Moreover, Hakodate port’s opening to foreign trade in 1869, brought visitors from every land and these quarters did a thriving business.
This monument reminds us of the fact that in the shadows of the port opening’s new age there existed women who had no choice but to work and end their lives here as prostitutes. The names of the donators are engraved on the pedestal.
CITY OF HAKODATE

場所

参考


北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

「北海道知事  田中敏文書」とあり。

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

  • 2018/6/6 撮影。

碑銘

北海道水田発祥の地碑

水田発祥由来
亀田郡大野村字文月押上のこの地に元禄五年農民作右エ門なる者南部の野田村から移つて人々の定着は米にあるとして地を拓し自然水により四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した爾来消長あつたが後「御上田」と称して現在に及んでいる 先人未踏の北辺に今日道産米三百万石の基礎はかうして発祥したものである
渡島支庁長 岡武夫書
昭和二十四年八月建之

北斗市教育委員会の説明板

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑
蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661〜72)、貞享2年(1685)、元禄5年(1692)の記録がある。水田発祥の地碑は、元禄5年の「松前志」の記録と村民の伝承によって昭和24年(1949)に建てられた。
碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約15アール)を開田し、道米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
作右衛門の水田は2、3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2年(1805)には箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
嘉永3年(1850)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元年(1854)以降、米作りはようやく安定した。明治6年(1873)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったのである。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会

『松前志』

北海道大学北方資料室蔵帝国図書館所蔵本写

松前志

東京国立博物館蔵

松前志

北大蔵の写本よりもこちらの方が読みやすい。北斗市教育委員会の説明板に「「松前志」の記録」とあるのは『松前志巻之六』の冒頭に出てくる、

元禄五年東部亀田ニテ作左衛門ト云モノ新田ヲ試ミケレド二三年ニシテ廃レタリ

のことと思われる。なお、碑銘、説明板で「作右衛門」と紹介されている人物は、『松前志』では(北大、東国博ともに)「作左衛門」となっていた。

上記の記載に続けて、辺幾利地(へきりち)についても言及されており、ほぼ同時期に旧上磯地区においても開田が試みられていたらしい。

同七年東部辺幾利地ニテ墾田ヲ試ミシカ實リテ新米ヲ藩主ヘ呈セシコトアリ

次いで江差についての記載があり、この時期の道南各地で稲作が試行されつつあったことがわかる。

場所

その他