道南一覧

三味線滝

国道278号を鹿部から南下すると、道路沿いに現れるのが三味線滝である。

 

三味線滝

2007年5月6日撮影。

 

三味線滝

2007年5月6日撮影。滝の前に設置されたパネルの内容は以下のとおり。

 

景勝 三味線滝

昭和4年の駒ヶ岳大噴火により周辺の景色を損じたが、岩を流れ落ちる清流が三味線の音色にきこえることからこの名がついた。又、快晴の日にはこの場所から羊蹄山、昭和新山、有珠山を望むことができる。

 


サラキ岬と咸臨丸

木古内町釜谷駅と泉沢駅との間にあるサラキ岬。

春にはチューリップ畑が見頃となる。

日本初の軍艦として知られる咸臨丸が座礁沈没したのが、ここサラキ岬とのこと。

 

サラキ岬

2007年5月5日撮影。サラキ岬から木古内町泉沢方面を望む海岸線。

 

 

サラキ岬

2007年5月5日撮影。チューリップ畑。満開時にはとても美しい。

 

 

サラキ岬咸臨丸モニュメント

2007年5月5日撮影。咸臨丸のモニュメント。

 

 

サラキ岬

2007年5月5日撮影。咸臨丸終焉の碑。

 

木古内町観光協会設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

サラキ岬に蘇る咸臨丸

咸臨丸は1857年、オランダで建造された日本初の軍艦であり、幕末の怒濤の中、1860年初の太平洋横断の快挙をなし遂げ日本近代化の一役を担いました。晩年は数奇な運命をたどり、蝦夷地開拓移民を乗せた咸臨丸は、1871年ここサラキ岬で座礁沈没し、栄光と悲劇の幕を閉じました。

このモニュメントは郷土の歴史遺産である咸臨丸の栄光の歴史を後世に伝えようとする町内外の人々の熱き思いによって製作されました。

平成19年5月20日

咸臨丸とサラキ岬に夢みる会・木古内町観光協会

 


厚沢部町の鹿子舞い

厚沢部町を訪問した際に立ち寄った郷土資料館。

鹿子舞いを再現した展示物が非常にリアル。

 

厚沢部町の鹿子舞い

2007年3月18日撮影。

 

厚沢部町の鹿子舞い

2007年3月18日撮影。解説パネルの内容は以下のとおり。

 

鹿子舞い(ししまい)

鹿子舞いは、鹿子(ししこ)踊りともいい、風流獅子舞い(獅子1頭に1人が演ずるもの)の変形で、獅子頭のかわりに鹿頭が使われているものです。特に東北地方に多く伝承され、盆や秋祭りなどに踊られています。

厚沢部町に伝わる鹿子舞いは、松前藩当時に檜山といわれたアスナロ(ヒバ)造材の出稼ぎ杣夫(そまふ)によって伝えられたと云われます。この舞いは五穀豊穣、豊漁、家内安全、悪霊払いの祈りをするために行われ多くの曲があります。

厚沢部町では、現在6つの地区に保存会があり、毎年、盆や太鼓山祭りなどで披露されています。

鹿子舞い人員構成

鹿子頭 3人

太鼓 2人

笛 3人

ササラ 1人

鐘 1人

提灯 2人

警護棒 4人

ヤンコ 1人

オカシコ 1人

 


東蝦夷地南部藩砂原陣屋跡

2007年訪問の森町砂原の南部藩砂原陣屋跡。

今も土塁の跡が残されている。

 

南部藩陣屋跡

2007年3月3日撮影。

 

南部藩陣屋跡

2007年3月3日撮影。

 

南部藩陣屋跡

2007年3月3日撮影。

 

敷地内には説明板が設置されている。2007年当時2種類の説明板があり、内容はほぼ同一。

記載されていた内容は以下のとおり。

 

東蝦夷地南部藩砂原陣屋跡<国指定史跡>

昭和49年8月22日指定

所在地 四軒町

設置年月日 安政三年

幕府は安政2年4月(1855)仙台、秋田、南部、津軽、及松前の5藩に、蝦夷地警衛の分担を命じた。

南部藩は箱館表出崎の警衛を主として、恵山岬から東蝦夷地幌別まで、一帯の海岸を持場として、箱館谷地頭の北方に元陣屋をおき、砂原分屯所(南部陣屋)は、安政3年には、四軒町にあり、兵隊約50名、砂原は市中と神社脇や駒ヶ岳のふもとに、小屯(見張所)をおいた。

旧砂原町四軒町に、東西37間(66.6m)南北約33間(59.4m)の方形に、周囲の土塁の高さ、約1丈(3m)である。

 

 

蝦夷地南部藩砂原陣屋跡(国指定史跡)

Sawara-territory of Nanbu-domain in East Ezo ( Hokkaido ) ( National Historic sight )

この陣屋跡は、幕府の命により、南部藩が北辺警備のために、安政3年(1856年)10月より翌1月にかけて築造したといわれている、南部藩室蘭陣屋の砂原分屯所です。

明治元年(1868年)砂原陣屋(分屯所)内の家屋等を壊して引揚げるまで、常に約30名の藩兵が駐屯していたといわれています。

広さは、東西約37間(66.6m)、南北約33間(59.4m)の方形に、周囲の土塁の高さ、約1丈(3m)と記録されています。

Years ago , there was a fort in the Sawara-territory built by the Nanbu-domain under order of the Shogonate. The construction lasted from October 1856 through January 1857. Upon completion , it spanned 66.6 m from East to West , 59.4 m from North to South and 3 m in height. The Sawara-territory fort served as a branch to a fort already existing in Muroran city. Thirty people from the Nanbu-domain stayed at the Sawara-territory fort until 1868 when all buildings were ordered destroyed.

森町

 


茅部の鯡供養塔

森町、石谷駅前にある鰊供養塔。

宝暦7年、豊漁となった鰊を埋却した際に建てられた鰊供養塔。

2007年の訪問当時、写真のとおり風雪から塔を保護するためと思われるが、ガラスの展示室に納められていた。

 

茅部の鰊供養塔

2007年3月3日撮影。道有形文化財指定を記す碑。

 

茅部の鰊供養塔

2007年3月3日撮影。

森町設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

北海道指定有形文化財 茅部の鯡供養塔

一、建立 宝暦7年5月(西暦1757年)

二、碑文

(表面)

宝暦七丁斗天

〓南無阿弥陀仏

五月吉祥日

鯡供養塔

(裏面)

漁者 亀田家中

同断 茅部衆中 願主箱館 佐藤彦左衛門

同断 箱館衆中

同断 村邑衆中

三、由来

宝暦年間の東蝦夷地茅部場所は、鰊の豊漁地として有名になった。地元茅部漁民の外に、箱館・亀田・上磯等より多数の入稼出漁者が来て、沿岸一帯の鰊漁業は大へん盛況となり、特に宝暦7年の春鰊は大豊漁で、浜辺は鰊の山を築いた。

当時鰊は、乾製食料以外鰊搾粕の行われない頃であったから、この大漁に当り、漁業者合議の上土中に埋めて鰊の供養塔を建て、慰霊法要をしたのである。

後年尚この地方は東部鰊の盛漁地として名を成したが、明治以後次第に漁獲が減少し往時の面影は今はないが、この塔の存在は本道開拓漁業史上最も重要な鰊のみの供養塔であることから、本道有形文化財として世上の関心が高まり、昭和5年6月22日史跡保存法により仮指定となり、更に昭和38年12月24日北海道有形文化財の指定を受け、永久保存管理されることとなった。

昭和39年10月1日

管理責任者 森町

 


榎本軍鷲ノ木上陸地跡

幕末、榎本武揚率いる艦隊が上陸したのが鷲の木村。現在の森町鷲ノ木。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

2007年3月3日撮影。とても静かな場所。箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑が立つ。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

2007年3月3日撮影。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

2007年3月3日撮影。森町教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

明治元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったといわれる。

榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天・蟠龍・長鯨・神速・鳳凰・回春・大江)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら2千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。

当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。

21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえていた官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯ノ崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。

こうして、明治2年5月の、箱館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。

今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります。

平成2年7月30日

森町教育委員会

 


佐女川神社とみそぎ事始め

2006年に訪問した木古内町佐女川神社の鳥居。道南を代表する行事の一つである寒中みそぎが行われる場所であり、碑には神社の由来のほか、みそぎの由来についても記載されている。

 

佐女川神社とみそぎ事始め

2006年4月23日撮影。由来を記す碑の内容は以下のとおり。

 

佐女川神社の由来

佐女川神社は松前藩地頭河野加賀守源景広ご勧請により当時1624年寛永2年に鮫川の辺りに祠を建てられ武運長久を祈願されたと伝えられている。又ご勧請の神様は日本の初代天皇である神武天皇の母上様であり玉依姫の命と申すお方様であります。

 

佐女川神社みそぎ事始め

古老の言によると天保2年(1831年)神社守の夢枕に「御神体を潔めよ」とのお告げがあり目をさますと寒気肌さす1月15日の早朝であった。

神社守は直ちに真下の小川の氷を打砕き身を切るような冷水で自身を清め御神体を抱いて海岸に臨むと川口に大鮫が波に打たれその背中の上に美しい白衣をまとった女性の姿が見られた。あヽ聖なる神の使者と信じ御神体を幾度となく沐浴し、ふと見ると女性の姿は見えず大鮫は川の上流へ上り小さな沼に姿を消されたという。その沼は佐女沼といわれ、今でも尚お住みになっており、その年から豊漁豊作が続き村は大変潤ったと言われている。又安産、交通安全の守護神としてあがめられております。それからみそぎの伝統行事として毎年1月15日に執り行われており穢れない優秀な4人の青年がみそぎのご神体、別当、稲荷、山の神、弁財天の4体を潔められております。

1月13日になると夜6時から参籠祭を執り行い15日の朝までオマニシクギダの小太鼓の音のリズムに合せて行修者は厳寒の中鍛錬に入り本祭を迎え毎年この場所で執り行われているものである。

平成元年12月18日建立

木古内町 佐女川神社

 


山形荘内藩士上陸之地

木古内町にある山形荘内藩士上陸之地碑。2006年4月に訪問した。

明治期の開拓の歴史を刻んでいる。

 

山形荘内藩士上陸之地碑

2006年4月23日撮影。碑の内容は以下のとおり。

 

山形荘内藩士上陸之地

北門の警備と蝦夷地開拓 自立自営の大使命を帯び 明治18年から同19年にかけて山形県鶴岡を出発 酒田港より御用船にて此の地に上陸し 荘内藩士 佐藤洋孝と共に105戸が帯刀を鍬にかえ 土地開墾を志向す

所謂 士魂を農魂にと皆をあげ決然轉身の勇を揮い 大谷地 棚部岱 瓜谷 吉堀 中野 達川に移住し 爾来 鏤骨の辛苦と苦難の農耕を続け 歴代に受け継がれ 此処に87年の今日 水田酪農郷鶴岡地域を築く

改めて先人の労苦と偉業を偲び永遠に傳えん

酒井忠明書

 


室蘭市絵鞆岬と地球岬

2004年10月訪問の室蘭市絵鞆岬と地球岬。

 

絵鞆岬

2004年10月撮影。絵鞆岬。

 

絵鞆岬地名由来板

2004年10月撮影。絵鞆岬の地名由来板。内容は次のとおり。

 

絵鞆(えとも)岬

室蘭発祥の地。絵鞆とはアイヌ語のエンルムから転じたもので「突き出ている頭」「岬」というのが語源。

絵鞆は江戸時代から明治維新まで室蘭地方の地名であった。地図の上では、蝦夷の古地図として知られる正保日本図(1648年頃)にエントモと書かれている。

慶長年間の初め松前藩の直轄所(漁業基地)として開かれ、交易所で通行人の宿泊もできた運上屋が置かれた所であり、夏季にはアイヌと交易するため、松前藩の弁財船が絵鞆の澗に出入りした。

絵鞆岬と東の丘上にあったチャシ(砦)遺跡や周辺の貝塚からは、縄文早期(約9千年—6千年前)からアイヌ時代(約8百年—百年前)に至る貴重な出土品が数多く見られた。

 

ちなみに、絵鞆岬展望台は船の形をしており、とてもユニークである。展望台に設置された室蘭市の説明には、次のように記載されていた。

 

絵鞆岬展望台

絵鞆は、アイヌ語のエンルム(「突き出ている頭」・「岬」)を語源とし、慶長年間(1596〜1614)にアイヌの人達との交易の場・絵鞆場所が開かれ、交易・交通の中心地となったことから、室蘭発祥の地とされている。

また、寛政8年(1796)には、絵鞆沖にイギリスの探検船プロビデンス号が来航し、天然の良港「エンデルモ(エトモ)・ハーバー」(室蘭港)や「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾=内浦湾)を世界に紹介した。

この展望台は、これらの歴史を背景に、室蘭市開港120年市制施行70年の節目の年に、室蘭市の新たな旅立ちと自らが発見者・チャレンジャーとなるよう、未知なる大海原へ船出した帆船をイメージして作られた。

平成4年12月 室蘭市

 

地球岬

2004年10月撮影。ところかわって地球岬。噴火湾を一望する眺望は圧巻。

 

噴火湾

2004年10月撮影。天気が良ければ駒ヶ岳まで見ることができるらしい。

 

地球岬の由来板の内容は次のとおり。「地球岬」というネーミングが、アイヌ語に由来していたということはまったく知らず、勝手に後代になって適当に付けられたものかと勘違いしていた。

 

地球岬

語源の「ポロ・チケップ」(親である断崖)が、チケウエ→チキウと転訛し、「地球岬」という当て字が使われました。

地球岬は、昭和60年の「北海道の自然100選」(朝日新聞社)、昭和61年の「あなたが選ぶ北海道」(北海道郵政局)で、それぞれ第1位になりました。以来、たくさんの観光客が訪れていますが、この展望台に立つ人たちに、地球の円さと自然の雄大さを実感させてくれます。

あなたのいま立っている広場(海抜147.5m)は、地球の100万分の1の大きさ(直径12.8m)で、室蘭を中心にしたユニークな世界地図を描き、各大陸の主要都市名は、その国の母国語で記しています。

ここの海岸線は、100m前後の断崖絶壁が連なり、晴れた日には、対岸に駒ヶ岳、遠くは恵山岬や下北半島をも望むことができます。

また、地球岬沖は、鯨・イルカウオッチングでも知られ、夏から秋にかけて、この展望台からもイルカの群れが見られることがあります。

贈 室蘭異業種交流会 室蘭原起会

(平成7年5月 設立5周年記念)

 


横津岳山頂

横津岳山頂のレーダードームは、函館市内から山を見上げても山頂にはっきりと見える施設。

 

横津岳山頂

2004年11月21日撮影。横津岳山頂のレーダードーム。

 

レーダードーム

2004年11月21日撮影。近くで見ると結構な迫力がある。

 

横津岳山頂

2004年11月21日撮影。山頂の横津神社鳥居。

 

横津岳山頂

2004年11月21日撮影。横津岳山頂から望む夕日。

 

横津岳山頂

2004年11月21日撮影。さらに奥へと続く道。

 

横津岳山頂

2004年11月21日撮影。

 


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