北斗市一覧

大野農業高校に残る土塁

土塁

土塁

土塁

土塁

大野農業高校に残る土塁は、庄内で養蚕事業に実績のあった榊原十兵衛らが明治8年春から秋にかけて築いたものである。

説明板

土塁
 明治三年開拓使は、この地に養蚕所を設け桑園を開いた。
 ここは、開拓使長官黒田清隆の要請で酒田の士族が開墾にあたったところであり そのとき表門のあった場所で当時ここには大きな「とびら」が設けられこれをはさんで土塁がつくられていた。
 この土塁は、山形の鶴岡藩士である榊原十兵衛、水野重敬等六十五名が、明治八年五月から九月下旬までかかって築造したもの

 開拓使時代の桑園跡として名残りをとどめている本道唯一の土塁となっている。

昭和五十六年十月二十四日
北海道大野農業高等学校同窓会

観音山

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山(2020/06/07)

観音山の馬頭観音像

北斗市向野の観音山(標高144.4m)に、この地域で最も古いといわれる馬頭観音が祀られている。放牧馬に対する熊の被害が多かったことに因むものらしい。明治44年には日露戦争戦死者忠魂碑が建てられ、毎年献納された花相撲は地域の人々に親しまれた(忠魂碑は、昭和42年に意冨比神社境内に移設されている。)。また、天保飢饉の際には、観音山の蕨やどんぐり等により多くの人々が飢えをしのいだとの記録が残されている。

説明板

観音山
 観音山は向野279-1に位置し、標高144.4mの山である。
 観音山の名称の由来は、馬頭観音を祭ったことによりはじまると言われており、郷土の馬頭観音の中で一番古いものであると言われている。
 光明寺に残る古文書によると、大野・市渡・文月の三村が放牧場として貸付を受けた歴史は古く、文化年間(1804~18年)頃と解される。
 放牧の馬に対しては熊による被害が多く、熊から馬を守るために馬頭観音を祭ったのが観音山の歴史の始まりで、明治以後は、村の人々の和楽の場ともなって親しまれている。この地より大野平野を一望することができ大変風光明美(ママ)な場所である。
平成3年5月
大野町教育委員会

『新大野町史』の記載

一 慧日山 光明寺
昭和十二年(一九三七)、新たに大野村史の編さん計画があった際、当時の住職冨田来学から村当局に寄せられた史料には次のように記されている。
(略)
付属二 馬頭観世音菩薩
 ①本尊 馬頭観世音菩薩
 ②由来 文化年間創立、観音山ハ元牧場タリシガ、熊・狼ノ害多ク困難セリ。依ッテ大野・文月・市渡三村ノ有志之ヲ憂ヒテ建立シ、且村民風雨ノ際避難所トナセリ。凶作ニ際シテハ該山野ニ入リ、蕨ノ根ヲ掘リテ之ヲ食シタリト云フ。村民ハ益々信仰ノ念ヲ厚クシ、明治五年七月有志ノ寄付ヲ以テ再建スルニ至レリ。
(大野町史編さん委員会編『新大野町史 第7編 宗教』北斗市 p.727-728)

「松前天保凶荒録」の記載

同郡大野一渡本郷文月千代田一本木六村
天保四及七両年ノ凶荒ハ第一気候不順ニシテ日々風雨寒気甚シク、就中東風、北風最モ害ヲナセリ。作物ハ当時多ク蕎麦・大小豆・粟・麦・其他馬鈴薯ノミニテ、水田モ多少アリシカト只稗ヲ植付シ迄ニテ皆不熟ナリシ。右ノ景況故当地人民ハ勿論近接ノ漁夫ニ至迄当村エ来リ字向野観音山ニ於テ蕨ノ根ヲ堀リ採リ澱粉ヲ製シ又ハ「シダメ」胚ヲ拾ヒ各冬期ニ際シ渓澗ノ枯蕗等ヲ取リ之ヲ食シ終ニ生命ヲ保チシ(略)

北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (14 / 49 ページ)
北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (14 / 49 ページ)


八郎沼

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

八郎沼(2020/05/31)

「自治制施行百周年記念 昭和55年10月17日 大野町長 小西恒藏」とある。

北斗市向野の八郎沼公園は、明治13年に山田致人が乳牛の飲み水用に池を掘ったのが始まりで、その後中村長八郎が養鯉場として修築し現在に至る。八郎沼の八郎は、中村長八郎の名に因むものである。

説明板

八郎沼公園の由来
八郎沼のおこりは、明治13年の頃 山田致人(現愛媛県生)が、隣接向野の観音山附近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯わえたものであったが、その後中村長八郎が、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築したものが今日の沼の原形となり地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。又、公園は昭和50年から大野町が構想を樹て総合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が高まっている。
大野町教育委員会
大野町観光協会
平成18年2月1日より北斗市

八郎沼公園
 八郎沼の起こりは、明治13年山田致人「弘化3年伊予国(現愛媛県)生まれ」が向野の観音山で酪農を始めたことにある。乳牛頭数5頭、うち4頭は雌であったという。致人が牛に水を飲ませるために池を掘って水を貯えたもので、それが水田の用水ともなった。後年、中村長八郎氏が修築し、養鯉場や水田かんがい用のために造ったのがこの沼であり、長八郎氏の名前にちなんで「八郎沼」と名付けられたといわれている。昭和50年頃から町が公園用地として総合公園をめざして整備に着手し、現在では「八郎沼公園」として、近郊の市町村や多くの町民に広く親しまれ、憩いの場に利用されている。
平成2年6月
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会

八郎沼(2020/06/06)

八郎沼(2020/06/06)

中村長八郎

慶応3(1867)年生まれ。明治37年、38歳のときに道議会議員に当選。大野出身で最初の道議会議員となる。昭和6年没。
(大野町史編さん委員会編『新大野町史 第12編 人物』北斗市 p.1096-1097)

その他

厚沢部町郷土資料館石井です。厚沢部町郷土資料館では、2013年11月19日から12月30日まで町の開拓功労者である山田致人の展示を行っています。昨年、修理...

大野養蚕場跡

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

大野農業高等学校 2020/05/24

明治8年、開拓使は、大野村向野(現北斗市向野)に大野養蚕場を開設した。のちに徳川義礼に貸し付けられ、徳川農場と呼ばれた。大野養蚕場時代に囲いとして築かれた土塁や境界に植えられた黒松並木は、現在も大野農業高等学校敷地内にその姿をとどめている。

説明板

大野養蚕場跡
 向野の地には、自生している桑の木があったことから、この北海道でも養蚕をやれないかと、当時の開拓使長官黒田清隆は、判官松本十郎に具体的に計画を立てさせ実行させたと伝えられている。
 明治3年(1870)養蚕事業は札幌の桑園とここ向野が選ばれた。面積はほぼ33ヘクタールで4年(1871)に始まったが、6年(1873)には業績が上がらず中止となった。
 明治8年(1885)七重勧業試験場の属地として大野養蚕場が開設され継続された。15年(1892)開拓使が廃止になり、明治19年(1896)以降、八雲の徳川義礼に払い下げられ大野養蚕場として運営され、その後徳川農場の名のもとに農家の副業として昭和の初めまで細々と続けられた。関東方面に「蝦夷の花」というネイミングで出荷された。
 徳川農場は土塁と樹木で整然と区画され、330ヘクタールを擁していた。かつては、大野町民の憩いの場、あるいはグランドとして利用されたこともあった。現在は平坦部の大部分は、道立大野農業高等学校地になっている。また人々は徳川農場と呼んだり、桑園通りともいわれている。
 平成12年8月 大野町教育委員会 平成18年2月1日より北斗市教育委員会

北海道大学 北方資料データベース

大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市

大野養蚕所(場)の設置
 前幕領時代から本道に自生する桑を生かして養蚕を試みる者があったが、成功しなかった。この地で養蚕が本格化したのは、開拓使が設置されてからである。この養蚕の構想は、開拓使長官黒田清隆によるものといわれ、その計画は、判官松本十郎によってなされている。
 明治3年(1870)、開拓使によって大野村に養蚕所が設けられ、岩鼻県(群馬県)から3名が来て養蚕の指導にあたった。福島県から購入した蚕卵紙3万枚を管下に配布するなど、民間の奨励にも努めたが振るわず、同6年の冬中止となった。
 同8年、開拓使は再び大野村の向野に養蚕場を設置し、旧庄内藩(現在の酒田・鶴岡地方)の技術者73名が大野村で桑畑の開墾にあたった。開墾面積は30ヘクタール余りで「大野養蚕場」と呼ばれた。その時に養蚕場の囲いとして築かれた土塁や境界に植えられたヒノキ・黒松並木が今も残っている。
 これに呼応して、同13年、西川初蔵と品川市郎の呼びかけで、観音山の南側ふもと一帯に村民の協力を得て桑畑を造成を行った。同15年、開拓使が廃止され、19年北海道庁時代に入ってから、この地域は徳川義礼に貸し付けられ、徳川農場となった。
 同15年、八雲の徳川開墾場が徳川農場となってからは、大野の養蚕も姿を消してしまった。(大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市 p.137)

○ 桑畑の造成
 明治13年、西川初蔵と品川市郎が村に呼びかけ、村民の協力をえて行った。同8年に酒田県の青年70余名が、現在の大野農業高校の敷地30余町歩を耕し、64,700有余の桑を植えた。養蚕は前途有望と見込まれていたので、これに呼応した人も多く、観音山の南側一帯にも桑の苗が植えられた。不幸にして山火のため焼失してしまい、その労は報いられなかったが、以来、この地帯の開発は進んだ。(大野町史編さん委員会編(2006)『新 大野町史』北斗市 p.139-140)

その他


北斗市清川の旧神山繁樹邸

北斗市清川に残る旧神山繁樹邸は、明治29(1896)年に建てられたもので、洋風の外観と伝統的な間取りという当時流行した建築様式を今に伝えている。

神山繁樹は、函館の郷土史家である神山茂の祖父にあたる人物で、嘉永2(1849)年に会津で生まれ、明治4(1871)年函館にやってきた。函館で牛肉店、ホテル、洋食店などを営み実業家としての成功を収めたのち、明治25(1892)年に清川村に移り住む。

清川村でも多くの小作人を抱える開拓農場主として活躍したほか、沖川小学校や清川寺の改築にも尽力し、昭和9(1934)年、87歳でこの世を去った。

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

神山繁樹について

澤石太編『開道五十年記念北海道』の「神山茂樹」の項によれば、神山繁樹は、嘉永2(1849)年6月2日会津に生まれ、明治4(1871)年7月に函館に渡る。その後、南部(現岩手)から函館に肉牛を輸入し、会所町にて牛肉店を開いた。明治14(1881)年(『開道五十年記念北海道』には明治44年と記載されているが、おそらく明治14年の誤り。)大黒町にホテル、西洋料理店を新築するが、明治18(1885)年にはその経営を使用人磯村義廉に譲渡し、明治25(1892)年、清川村に転居したとされる。

なお、澤石太編(1985)『開道五十年記念北海道』鴻文社(復刻版 復刻版の背の書名:北海道開拓五十年史 元出版年:大正10年。)p.242-243「神山茂樹」の項の記載は以下のとおりであった(漢字は、一部新字体等に置換した。)。

○数奇なる運命に駕して成功したる本道拓殖功労者
渡島国上磯郡上磯村
神山茂樹
翁の一代を叙するに殆んど其半ばは数奇なる運命に捕はれ、潑溂たる壮年の勇気は萬軍を叱咤し幾萬の貔貅を恐れず勇往邁進修羅の巷に其の勁勇武力を誇るの時代あり、失脚幾回か倒れ失望落膽其の不遇に泣くの時あり、遂に最後の優勝者として其成功を以て終結す翁の一代は将に人生成功の活ける好教訓たり、神山家は遠く天正年間の疇昔より会津藩に仕へて累代御徒士目付役を勤む 其末裔を周蔵と称す、乃ち翁の厳父たり、茂樹翁は嘉永二年六月二日を以て会津の神山邸に於て呱々の声を挙ぐ資性豪宕不覇弱冠にして武を好み、年少小野派一刀流の達人塚田孝平に師事して武道を錬磨す技頗る巧達術亦た妙諦の域に達す、闔藩の儕輩咸な翁を畏敬す、或年乃父に請うて銘刀一振を得む事を以てす、乃父其志を壮とし快諾直ちに時の名工会津藩の住人道守に命じて二尺三寸の一刀を精作せしめて翁に与ふ、干時元治元年八月なりき、翁之を享け欣躍措く所を知らず、異日必らず君父の洪恩に報ひ邦家の為めに微力を献げ、家を興し名を成す必らず斯刀に如かずと、常に好侶として座右を離さず、偶々戊辰の役起るに逢ふや好機逸すべからず、奮然蹶起して宇都宮、日光、巳壬の激戦に馳せ参じ、屢々修羅の巷に馳駆して幾度か瀕死の危殆に陥りし事あり、然れども常に斯愛刀の為めに勇気百倍千蓰勁敵を倒し首級を得る事恰も根茎を断つが如く、戦毎に危殆を逭れ而も殊功偉勲を奏する事屢次たり、寔に愛刀の神霊畏敬に勝へず、後ち戦平定して廿八萬石の会津藩は減封せられ、南部、三戸 大澗に於て僅に三萬石を賜ふ 藩主松下肥後守は隠居を命ぜられ嫡子慶三郎を以て継嗣と為し藩士を挙げて田南部に遷移せしむ、旧臣上下の別なく面扶持二合五勺を賜ふ、於是藩臣皆衣食の途に窮して土着帰農する者多し、翁此の時年齢廿四志を樹て意を決して郷土を辞し藩友佐川正と倶に蝦夷に航し函館に上陸す、干時明治四年七月なりき、此時路金七金を余すのみ、頼るに人なく、起すに資なく、已むなく素志を飜して将に帰国せむと決す、或日弁天町の飲食店竹柴屋に到りて牛肉数片を命じて食す、食後其料を問はヾ二歩なりと謂ふ、其価格の頗る高貴にして当時落魄失意の一寒生として驚異悔悟に堪へず、於是翁釈然大いに嬉んで曰ふ、爰に高貴なる肉料を払ふて却て大なる 益を得たりと、倉皇南部に到り生牛一頭を一円五十銭を以て購ひ之を函館に輸送して販売せば忽ち巨利を獲べしと、牛を曳て青森の下北郡下風呂の沿岸に到り将に帆船を待って函館に航せんとす、船体狭少にして生牛を搭載する克はず、船夫拒んで之に応ぜず、翁一策を案じ山間に牛を曳いて到り之を撲殺せむとして一撃を加ふ、牛は斃れずして却て狂暴奔逸す、翁大いに其惜為に苦しみ辛ふじて膂力之を拉殺し切断五六に分ち、柳行李に入れて遂に之を函館に輸送す、東奔西馳一軒の店舗を借入れ将に之を鬻で巨利を博せむとす、行李を解きて之を店頭に駢列す、異様の臭気は紛々として鼻を衝いて堪ふる事能はず、翁恠みて之を検するに炎熱赫々の間数日行李中の肉は悉く腐爛し了せり、翁の失望極点に達し瞬間の得意倏ち落膽の淵に陥り、其当時の困憊窮状名状すべからず、翁は歔欹嗚咽して血涙滂沱其善後の策を講ず、偶々親属淺井清一なる人開拓使少主典として函館に赴任するに邂逅す、愬ふるに実を以てし其急を済はむ事を請ふ、淺井少主典翁に誨ふるに艱難は無気力の人を驚嚇するも勇壮果断の人に対しては有益無二の良刺衝たり、汝宜く勇壮果断の人たれと翁に廿金を與ふ、斯の訓誨は千金に優るの資本なりと翁大いに喜び、廿金を携へて再び南部に到り生牛七頭を購ふて之を函館に輸入し、会所町に於て家屋を借入れ盛んに牛肉店を開始せり、爾来盛に生牛の輸入を謀り低価を以て一般に販売するに至れるを以て、牛肉の需用日に月に加はり盛んに函館に於て屠牛を開始す、乃ち函館屠牛業の濫觴なり、斯くして満腔の熱心を以て其業に励み健闘爰に十年一日の如く、産年と共に加はり、家業益々隆昌に赴くや業務の拡張発展を企画し、同四十四年(※十四年の誤りか?)に至り大黒町に壮大華麗なる洋館を新築し、爰に函館全市を飾るべき大ホテル、西洋料理店を開き、傍ら英、露、仏諸国の東洋艦隊の食料品売込みを請負ふ、時の函館県令時任為基翁の為人を愛して眷顧頗る敦し、翁感奮益々其業に精励するに至り業層々栄へ、収むる所の利純巨額に及んで産大いに成るや、子孫百年の計を策し、上磯郡清川方面其他に農耕地数百町歩を購入せり、同十八年に至りホテル及西洋料理店の営業全部を使用人磯村義廉に譲渡せり、時恰も亀田に於て第五聯隊の設置あり、大倉組より御用達代理店を嘱託せられ、同廿五年同隊の廃止と共に之を廃業せり、其年挙家清川村の農場所在地へ転居し爾来開墾耕耘に従事し、自から犁鋤の労働を事とし農産品の改良を謀り、地方産業の発達に努力し、拓く処の田数百町歩に及ぶ、曾て村惣代、村会議員、農事員、学務委員、徴兵参事員等の公職に挙げられ、曾て沖川小学校舎改築の挙あるや、工事監督の任に膺り此間自家の業を顧みず、而も私財を投じて匠工を慰藉督励して其工を速かならしめ、工竢りて落成の式典を挙るや一切の費用を自弁支出し、私費を抛て校舎の周囲に数百本の落葉松を植栽し、以て風致を添へ防風に便す、職員の優遇に意を濺ぎ私財を捐する事少からず、殊に敬神の念深く仏教の帰依厚く浄財の寄捨を吝まず、又は村有財産の基金造成に意を注ぎ多年の努力空しからず、今や其の額八百有余円に達す、又大正二年凶歉に際し部落窮民の救済に尽瘁せる功労不少廉を以て銀杯一個授与表彰せられ、其他木杯感状を授与せられし事枚挙に遑あらず、明治七年郷里より実母マサ子を迎へ孝道を怠らず至孝の名高く、明治卅五年八月卅一日マサ子刀自享年七十四歳を以て永眠するや、清川村の廣徳寺中に厚く葬りて展墓を怠らず、翁や明治四年徒手空拳蝦夷に航し、函館に■(※足へんに主)爾来千辛万苦備さに百難を排し、艱難に克ち一時卑賤の業に躬を窶し、奮闘茲に五十年曾て初志を挫かず、実践躬行終始一貫して本道拓殖の大業を進めて邦家の為めに微力を効し、業成り名遂げ、今や上磯町有川河の流清き有川橋畔風光明媚なる、近く臥牛の山容は嬉ふて翁の健在を邀へ、邈洋として遠く陸奥の諸山連峰は、翁の成功を祝福して羨望の媚を呈すべき、山水景勝の地を相して邸墅を建設し、斯の楽園に風月を友とし優悠自適七十五歳の高齢を以て钁鑠尚壮者を凌ぐの慨あり、現に農耕地数百町歩に小作人五十戸を収容し、農業経営の傍ら造林事業を奨励し、翁自から壮丁を督して其業を廃さヾる事旧の如く、其精力の絶倫意志の堅実なる後人の師表とすべく、嗣子豊吉職を法衙に奉じて令名あり、愛婿分家神山雄次郎は樺太に於て鰊建網漁業を経営して盛名あり 愛孫十一人ありて一家一門の繁栄する亦以て翁が五十年健闘の賜たりと云ふべし。

場所

参考

  • 川島智生『明治中期の北海道における開拓農場主住宅について—函館近郊上磯町の旧神山繁樹邸からみえてくること—』「神戸女学院大学論集57巻1号(2010)」p.27-45
    この論文のなかで著者は、旧神山繁樹邸が明治5年に札幌で建設された通称「ガラス邸」と呼ばれた開拓使官舎をモデルにしていた可能性があると述べている。
    なお、以下気になった点を挙げる。
  • 1章の「4節. 和洋折衷の棲み分け」(p.31)冒頭の「ほぼ近接した面積を示す。」は和室のことか?
  • 「3章. 上磯郡清川村」の冒頭(p.40)、「平成17年(2005)年に北斗市となった」とあるのは「平成18年(2006)年に北斗市となった」の誤り。
  • 4章の「2節. 清川村へ」中(p.42)「明治18(1895)年に、神山繁樹は函館を去り、清川村に移住する。47歳の時である。」とあるが明治18年であれば1885年であり、まだ36〜37歳の頃となる。
  • 結語の1)(p.43)中「現北杜市」とあるのは「現北斗市」の誤り。

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