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北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

「北海道知事  田中敏文書」とあり。

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北斗市村内に北海道水田発祥の地碑が建てられている。天明期に松前広長によって著された『松前志』に、元禄5(1692)年に作左衛門という人物が東部亀田において新田を試みたが3年にして廃れた、との記載があることに因むものである。

碑銘

北海道水田発祥の地碑

水田発祥由来
亀田郡大野村字文月押上のこの地に元禄五年農民作右エ門なる者南部の野田村から移つて人々の定着は米にあるとして地を拓し自然水により四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した爾来消長あつたが後「御上田」と称して現在に及んでいる 先人未踏の北辺に今日道産米三百万石の基礎はかうして発祥したものである
渡島支庁長 岡武夫書
昭和二十四年八月建之

北斗市教育委員会の説明板

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑
蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661〜72)、貞享2年(1685)、元禄5年(1692)の記録がある。水田発祥の地碑は、元禄5年の「松前志」の記録と村民の伝承によって昭和24年(1949)に建てられた。
碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約15アール)を開田し、道米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
作右衛門の水田は2、3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2年(1805)には箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
嘉永3年(1850)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元年(1854)以降、米作りはようやく安定した。明治6年(1873)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったのである。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会

『松前志』

北海道大学北方資料室蔵帝国図書館所蔵本写

松前志

東京国立博物館蔵

松前志

北大蔵の写本よりもこちらの方が読みやすい。北斗市教育委員会の説明板に「「松前志」の記録」とあるのは『松前志巻之六』の冒頭に出てくる、

元禄五年東部亀田ニテ作左衛門ト云モノ新田ヲ試ミケレド二三年ニシテ廃レタリ

のことと思われる。なお、碑銘、説明板で「作右衛門」と紹介されている人物は、『松前志』では(北大、東国博ともに)「作左衛門」となっていた。

上記の記載に続けて、辺幾利地(へきりち)についても言及されており、ほぼ同時期に旧上磯地区においても開田が試みられていたらしい。

同七年東部辺幾利地ニテ墾田ヲ試ミシカ實リテ新米ヲ藩主ヘ呈セシコトアリ

次いで江差についての記載があり、この時期の道南各地で稲作が試行されつつあったことがわかる。


鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社(北斗市本郷)

本郷村

本郷村の起源は大野の水田の歴史でもある。
『休明光記』に「すなわち丑年(文化二年)より開発せしむるに、その年一年に功を成すこと新田百五十町歩、田九十町歩字庚申塚・五十町歩字文月」とあり、これだけの大きな面積の開田は蝦夷地で初めてのことだった。
本郷の地名の由来は、庚申塚のあった所となっている。『新撰北海道史』にも「庚申塚のち本郷と称す」と記載されており、庚申塚が建てられたのは寛政8(1796)年で、文化2年の大開田より9年前のことである。
鹿島神社が寛政年間(1789〜1800)の鎮座となっており、このころから人家も増えたものと考えられる。
明治33(1900)年に大野村へ統一され、昭和7(1932)年の字名改正までは8つの字があった。同年、本郷、細入、白川の3つの字が制定された。

平成15年8月吉日
大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

旧本郷小学校

本郷小学校は、これまで開校と廃校の記録だけで、幻の学校であったが、「新大野町史」編さんに伴う調査で沿革誌や卒業証書が発見され、存在が明らかになった。
この学校は明治17年(1884)9月、大野小学校から独立、分離し、同32年の廃校まで、およそ16年間、独立校として存在した。校区は本郷、白川地区を中心とした当時の本郷村で、校舎は鹿島神社社務所付近にあったと伝えられている。
明治19年の「公立本郷小学校沿革誌」によると、この年の入学者は男子10名、女子2名、退学者は男女各1名で、秋季定期試験受験者は男子25名、女子3名、計28名とあり、相当数の生徒が通学していたことがわかる。教員には、五十嵐量平や高橋松三郎がいた。
廃校の理由には、大野小が明治30年10月、現在の役場所在地から現在地に移転し、通学が容易になったことが考えられる。廃校によって本郷小の児童は、鹿島神社横の通りで分断され、大野村側は大野小へ、市渡村側は市渡小へと通うことになった。

平成16年11月吉日
大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

鹿島神社(北斗市本郷)

鹿島神社と庚申塚

鹿島神社の起源についてはつまびらかではない。市川十郎の「蝦夷実地検考録」では寛政年間(1789〜1801年)とし、村史では文政年間(1818〜1830年)となっている。この地が、文化年間(1804〜1818年)に箱館奉行の手で水田の開発が行われた頃は、庚申塚と称されていたので、鹿島神社の鎮守はその後であろう。
文化2年(1805年)箱館奉行の大開田が行われ、同時に民間人の白川伊右衛門(相馬藩士)も開田に努力しているが、数年で病没、兄の伊左衛門が後を継ぎ、箱館奉行の援助で水田開発を完成した。これを基盤として本郷村が形成された。
鹿島神社の祭神は、武甕槌大神である。農村には稲荷神社が多いのに、本郷だけに鹿島明神が奉祇されたのは異様であるが、本郷村の開祖と関係ある白川一族の渡来先の因由に基づくものであると考えられる。境内にある庚申塚は、大野で一番古いもので、寛政8年(1796年)に建てられた。当時の9名の有名人の名が刻まれている。
庚申信仰は、庚申の年に禁忌を要求したもので、村のはずれや辻に建てられたと言われている。また、ここにカツラの大樹が残されているが、明治初年の植樹である。

平成3年5月
大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会


法亀寺のしだれ桜

法亀寺のしだれ桜

法亀寺のしだれ桜と小山内龍

法亀寺は日蓮宗実行寺の末寺である。1849年(嘉永2)大野村東下町に法亀庵として建てられ、その後法亀寺に改称し、1889年(明治22)現在地に移転した。
境内にある一本のしだれ桜は推定樹齢300年で高さは12mくらい。
垂れ下がった枝いっぱいに花が咲く。これほど見事な桜は珍しいという。
また、小山内龍(本名澤田鉄三郎)は函館に生まれ東京で漫画家、絵本作家として活躍した。「昆虫放談」は名作である。1945年(昭和20年)戦災に遭い本町に疎開し翌年なくなった。小山内龍は法亀寺に眠っている。
法亀庵建立に尽力した中村金兵衛や大野小学校長田中幸次郎の墓、果樹王と呼ばれた岡山峰吉の碑などがある。
平成11年10月
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会

岡山峰吉の碑

碑文は「岡山峰吉(みねきち)君は理想に近き実業家なり。君を失いしは大野村の一大損失にして、その誇りとする青年の指導者を失いしなり」の一節から始まる。
明治末期から大正中期にかけて、村民から「果樹王」と呼ばれた岡山峰吉は、明治4年(1871)、茨城県河内郡太田で生まれた。同31年7月、夕張、長沼を経て、単身大野へ移住している。峰吉の果樹園はかつて山田致人(むねと)が果樹園を試みた地で、苗床10町歩、果樹園10町歩を経営し、りんご、なし、桜桃(おうとう)、ぶどうを栽培、年産額1万円の収穫を得るまでに成功したことが碑文に記されている。
その努力と大成功に村民から敬愛されたが、大正9年(1920)3月、数え年50の春に他界した。石碑は同年6月、峰吉の妻・蘭によって向野の道路沿いに建てられ、後に法亀寺に移された。碑文を書いた伊藤松太郎は函館の教会の牧師で、峰吉は熱心なクリスチャンでもあった。
短命で後継者のない、はかない果樹王であったが、法亀寺の墓に刻まれた遺言と思われる「我は復活也生命なり」という句から、世俗を達観した人であった。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会

参考


大野川沿いの桜並木

大野川沿いの桜並木

大野川沿いの桜並木

大野川沿いの桜並木。この桜は、昭和34年に当時の皇太子殿下(今上天皇)のご成婚を祝して大野町が植えたもの、とのこと。もともと150本ほどあったそうですが、道路整備等の工事で伐採されたり、枯れたりしたほか、羊に荒らされた(60年前、大野川沿いにめん羊が放されていた。)こともあって、減ってしまったらしいです。

(平成29年4月29日訪問)

大野川沿いの桜並木

ご成婚記念の桜並木
大野川に沿って南北に走る町道本郷川原町通線の両側に、ソメイヨシノを中心としたおよそ100本の桜並木がある。この桜は昭和34年(1959)、当時の皇太子殿下(今上天皇)のご成婚を記念して、町が植えたもので、5年ほど育苗した苗木を取り寄せ、町民の協力で植樹された。
当初は150本ほど植えられたが、その後の道路整備や河川改修で伐採されたり、一部が枯れたりして減ってしまった。当時は大野川沿いに、めん羊がよく放され、苗木を荒らされたともいわれている。
樹齢も50年を過ぎ、例年、5月上旬には満開となる。この桜並木通りを歩行者天国にして夜の花見を楽しもうと、桜の木をライトアップした「夜桜インおおの」が昭和63年から8年間続けられた。
また、本郷橋から鹿島橋までの土手に、樹径30センチほどの若い八重桜が37本植えられている。標柱には「今上天皇御即位記念樹」とあり、平成元年(1989)の植樹である。
平成16年11月吉日
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会


矢不来台場の砲数

開拓使編(明治17年)『北海道志』巻22に矢不来台場についての記載がある。

矢不来台場 鉄砲4門 1貫目 500目 300目 150目

1貫目、500目、300目、150目の計4門の砲が配置されていたらしい。

北海道志巻22

  • 国立国会図書館デジタルコレクション>『北海道志』巻22 4コマ目 (2017/01/02 アクセス)

 


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