上磯一覧

松前嶋郷帳(天保郷帳)に現れる北斗市地名

天保5(1834)年の松前嶋郷帳(いわゆる天保郷帳)に以下の地名が記されている。

三石村
當別村
茂邉地村
冨川村
三家村
戸切地村
右枝村 中之郷
有川村
濁川村
文月村
大野村
右枝村 本郷 千代田郷 一本木郷

上記の次に「箱館村」「亀田村」と続いている。

松前嶋郷帳(天保郷帳)

出典


『寛文拾年狄蜂起集書』に現れる北斗市地名

寛文九年の『津軽一統志』、その翌年の史料『寛文拾年狄蜂起集書』にも『津軽一統志』と同じ地名が現れる。

一、三ツ石 同断
一、とうへつ 間小川有 但能キ間之由
一、とう別崎
一、もへつ 家拾間計 川有 狄おとな あいにしこ
一、すゝほつけ ちこ内より一里 家五六間
一、ヤけ内 すゝほっけより壱里 小川有 天神やしろ有
一、壱本木 家七間計 川有 狄おとなやくいん
一、へきれち やけ内より三里 川 狄有 家廿間計 おとな本あミ 是より山中とち崎出ル道ノ間拾六里程
一、あるか 川有リ

『寛文拾年狄蜂起集書』は、

シャクシャインの戦い後の松前城下や在々の状況を探るため、寛文十年(1670)、津軽藩より松前へ派遣された則田安右衛門ほか一名が、その地で見聞した事項を事細かに藩庁に報告したものである。

とのこと(海保嶺夫翻刻・解説(1998)『北方史史料集成 第4巻』有限会社北海道出版企画センター p.227)。

なお、同書では茂別の狄乙名の箇所を「狄おとなあり にしこ」としているが「狄おとなあいにしこ」と読めるように思われ、一本木の箇所も「やゝいん」ではなく「やくいん」かと思われる。

寛文拾年狄蜂起集書

寛文拾年狄蜂起集書

画像の出典


寛文7年頃作とされるゑぞの絵図に記されている上磯地域

 函館市中央図書館デジタル資料館で公開されているゑぞの絵図は、寛文7年頃の作とされており、西暦だと1667年年頃となる。

 「亀田」と「キコ内」の間に「トウヘチ」「モヘチ」が見える。また、折り目で欠けているが「ヘケ」とあるのは「ヘケレチ」と推測される。

ゑぞの絵図

出展: 函館市中央図書館デジタル資料館>ゑぞの絵図


寛永正保頃とされる松前蝦夷図に記されている上磯地域

 函館市中央図書館デジタル資料館で公開されている松前蝦夷図は、寛永正保頃とされており、西暦だと1624年から1648年頃となる。

 上磯のあたりに「ヘケツレチ」「川モヘチ」「トウヘチ」と記されているのが見える。言わずもがな「ヘケツレチ」は、「ヘケッレチ」つまり「ヘキリチ(戸切地)」であり、「トウヘチ」は「トウベツ(当別)」であり、頭に「川」が付いているが「モヘチ」は「茂辺地」である。

松前蝦夷図

出展: 函館市中央図書館デジタル資料館>松前蝦夷図 寛永正保頃


古本のおまけ

古本のおまけ

 今日、『道程(みちのり)—上磯町史写真集—』(上磯町、昭和57年)が古本屋から届いた。包装されていたビニール袋は、森文化堂のもので、桔梗店と並んで上磯店の記載がある。色もめずらしく赤肉メロンのような色の袋だった。森文上磯店の住所は現在のトライアル、当時のカウボーイで、小生、その頃は函館に来たばかりの学生だったため、森文があったことはまったく知らなかった。


矢不来台場の砲数

開拓使編(明治17年)『北海道志』巻22に矢不来台場についての記載があります。

矢不来台場 鉄砲4門 1貫目 500目 300目 150目

1貫目、500目、300目、150目の計4門の砲が配置されていたようです。

北海道志巻22

  • 国立国会図書館デジタルコレクション>『北海道志』巻22 4コマ目 (2017/01/02 アクセス)

 


『ペリー提督日本遠征記』

ペリー提督の『日本遠征記』、”Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”としてインターネット・アーカイブ(www.archive.org)で閲覧可能となっていました。

  • volume 1 (2016/12/31 アクセス)
  • volume 2 (2016/12/31 アクセス)
  • volume 3 (2016/12/31 アクセス)
  • volume 4 (2016/12/31 アクセス)

ペリー日本遠征記

上記「volume 1」に掲載されている七重浜近辺と思しき絵。補給用なのか、漁をする様子が描かれています。

ペリー日本遠征記

上記「volume 4」に掲載されている函館湾の図。有川、矢不来、茂辺地の記載があります。

日本語で出版されているものであれば、以下のものが良さそうです(未読ですが。)。


『蝦夷地名考并里程記』のなかの上磯地名

上原熊次郎(文政7)『蝦夷地名考并里程記』に上磯(現北斗市)の地名も出てきており、アイヌ語を語源とする旨記載されています。諸説あるのでしょうが、アイヌ語源というのは理解しやすい気がします。

東京国立博物館デジタルライブラリーにて『蝦夷地名考并里程記』の画像データも公開されており、該当箇所は7ページ目となります。

『上磯町史 上巻』の読み下しによれば、

 当別:夷語トヲウンベツなり。沼の有る川と譯す。トツは沼の事。ウンとは生するの訓にて有と申事なり。此川の奥に沼有る故号くという。

茂辺地:夷語ムーベツなり。塞る川と譯す。ムーとは塞と申事。ベツは川なり。此川餲水亦は仕化の節、水口塞る故、地名になすと云う。

戸切地:夷語ベケリベツなり。あきらかなる川と譯す。ベケリとは明らかと申事。ベツは川なり。この川の流れ清き故、地名になすと云う。

この戸切地の項には、有川について「此村内(戸切地)東の方の枝流を有川といふは和語なるべし。則、戸切地川の枝川なり」とある。

久根別(ク子ベツ):夷語クン子ベツなり。則、濁川と譯す。クン子は黒い又濁るの訓にて、ベツは川なり。此川水常に濁り流るゝ故、地名になすと云ふ。

七重:夷語はナァナイなり。則多く渓間有と云ふ事。ナアとは幾重等もと申事。ナイは渓又は沢等と申事なり、此辺渓沢の多く在故、地名になすと云ふ。

『上磯町史 上巻』p.511

蝦夷地名考并里程記

蝦夷地名考并里程記

画像は、上記東京国立博物館デジタルライブラリーで公開されている『蝦夷地名考并里程記』(2016/12/21 アクセス)です。


松宮観山『蝦夷談筆記』

江戸中期の儒学者、松宮観山の『蝦夷談筆記』に茂辺地、富川、戸切地のアイヌ居住について記載有。

『上磯町史 上巻』(1997年,上磯町)p.510に当該箇所の読み下しが載っています。

一、蝦夷地と松前地との境の義しかと限は無御座候。西在郷は田澤、乙部、東在郷ちこない、しやつかり、茂辺地、富川、へけれ地辺迄、人間 日本人の事を云 と入交り、蝦夷人居住仕候。しやも 日本人の事 の中に交り候て住居仕候義好不申哉、段々蝦夷地へ引入候て、近年は少く罷有、田澤、乙部杯のゑぞは疱瘡疹に死亡仕、只今は大方絶申候事

茂辺地、富川、戸切地のあたりでも蝦夷人が和人と混住していたものの、混住を嫌い、蝦夷人は蝦夷地に移っていったため少なくなった、といったことのようです。

なお、『蝦夷談筆記』の写本データが、早稲田大学図書館古典籍総合データベースに掲載されており、上記箇所(2ページ目が当該箇所)についても確認できます。


人形装飾付異形注口土器

昭和7年に茂辺地遺跡で出土した重要文化財の人形装飾付異形注口土器(ひとがたそうしょくつきいけいちゅうこうどき)、『上磯町史 上巻』(平成9年)には国立歴史民俗博物館収蔵とありますが、現在は、上野の東京国立博物館にあるようです。なお、レプリカは、新函館北斗駅併設の北斗市観光交流センター1階のイベントスペースで展示されています。

人形装飾付異形注口土器

※画像出典:東京国立博物館

参考

 


スポンサーリンク