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北斗市清川の旧神山繁樹邸

 北斗市清川に残る旧神山繁樹邸は、明治29(1896)年に建てられたもので、洋風の外観と伝統的な間取りという当時流行した建築様式を今に伝えている。
 神山繁樹は、函館の郷土史家である神山茂の祖父にあたる人物で、嘉永2(1849)年に会津で生まれ、明治4(1871)年函館にやってきた。函館で牛肉店、ホテル、洋食店などを営み実業家としての成功を収めたのち、明治25(1892)年に清川村に移り住む。
 清川村でも多くの小作人を抱える開拓農場主として活躍したほか、沖川小学校や清川寺の改築にも尽力し、昭和9(1934)年、87歳でこの世を去った。

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

※2019年6月2日撮影。

場所

神山繁樹について

澤石太編『開道五十年記念北海道』の「神山茂樹」の項によれば、神山繁樹は、嘉永2(1849)年6月2日会津に生まれ、明治4(1871)年7月に函館に渡る。その後、南部(現岩手)から函館に肉牛を輸入し、会所町にて牛肉店を開いた。明治14(1881)年(『開道五十年記念北海道』には明治44年と記載されているが、おそらく明治14年の誤り。)大黒町にホテル、西洋料理店を新築するが、明治18(1885)年にはその経営を使用人磯村義廉に譲渡し、明治25(1892)年、清川村に転居したとされる。

なお、澤石太編(1985)『開道五十年記念北海道』鴻文社(復刻版 復刻版の背の書名:北海道開拓五十年史 元出版年:大正10年。)p.242-243「神山茂樹」の項の記載は以下のとおりであった(漢字は、一部新字体等に置換した。)。

○数奇なる運命に駕して成功したる本道拓殖功労者
渡島国上磯郡上磯村
神山茂樹
翁の一代を叙するに殆んど其半ばは数奇なる運命に捕はれ、潑溂たる壮年の勇気は萬軍を叱咤し幾萬の貔貅を恐れず勇往邁進修羅の巷に其の勁勇武力を誇るの時代あり、失脚幾回か倒れ失望落膽其の不遇に泣くの時あり、遂に最後の優勝者として其成功を以て終結す翁の一代は将に人生成功の活ける好教訓たり、神山家は遠く天正年間の疇昔より会津藩に仕へて累代御徒士目付役を勤む 其末裔を周蔵と称す、乃ち翁の厳父たり、茂樹翁は嘉永二年六月二日を以て会津の神山邸に於て呱々の声を挙ぐ資性豪宕不覇弱冠にして武を好み、年少小野派一刀流の達人塚田孝平に師事して武道を錬磨す技頗る巧達術亦た妙諦の域に達す、闔藩の儕輩咸な翁を畏敬す、或年乃父に請うて銘刀一振を得む事を以てす、乃父其志を壮とし快諾直ちに時の名工会津藩の住人道守に命じて二尺三寸の一刀を精作せしめて翁に与ふ、干時元治元年八月なりき、翁之を享け欣躍措く所を知らず、異日必らず君父の洪恩に報ひ邦家の為めに微力を献げ、家を興し名を成す必らず斯刀に如かずと、常に好侶として座右を離さず、偶々戊辰の役起るに逢ふや好機逸すべからず、奮然蹶起して宇都宮、日光、巳壬の激戦に馳せ参じ、屢々修羅の巷に馳駆して幾度か瀕死の危殆に陥りし事あり、然れども常に斯愛刀の為めに勇気百倍千蓰勁敵を倒し首級を得る事恰も根茎を断つが如く、戦毎に危殆を逭れ而も殊功偉勲を奏する事屢次たり、寔に愛刀の神霊畏敬に勝へず、後ち戦平定して廿八萬石の会津藩は減封せられ、南部、三戸 大澗に於て僅に三萬石を賜ふ 藩主松下肥後守は隠居を命ぜられ嫡子慶三郎を以て継嗣と為し藩士を挙げて田南部に遷移せしむ、旧臣上下の別なく面扶持二合五勺を賜ふ、於是藩臣皆衣食の途に窮して土着帰農する者多し、翁此の時年齢廿四志を樹て意を決して郷土を辞し藩友佐川正と倶に蝦夷に航し函館に上陸す、干時明治四年七月なりき、此時路金七金を余すのみ、頼るに人なく、起すに資なく、已むなく素志を飜して将に帰国せむと決す、或日弁天町の飲食店竹柴屋に到りて牛肉数片を命じて食す、食後其料を問はヾ二歩なりと謂ふ、其価格の頗る高貴にして当時落魄失意の一寒生として驚異悔悟に堪へず、於是翁釈然大いに嬉んで曰ふ、爰に高貴なる肉料を払ふて却て大なる 益を得たりと、倉皇南部に到り生牛一頭を一円五十銭を以て購ひ之を函館に輸送して販売せば忽ち巨利を獲べしと、牛を曳て青森の下北郡下風呂の沿岸に到り将に帆船を待って函館に航せんとす、船体狭少にして生牛を搭載する克はず、船夫拒んで之に応ぜず、翁一策を案じ山間に牛を曳いて到り之を撲殺せむとして一撃を加ふ、牛は斃れずして却て狂暴奔逸す、翁大いに其惜為に苦しみ辛ふじて膂力之を拉殺し切断五六に分ち、柳行李に入れて遂に之を函館に輸送す、東奔西馳一軒の店舗を借入れ将に之を鬻で巨利を博せむとす、行李を解きて之を店頭に駢列す、異様の臭気は紛々として鼻を衝いて堪ふる事能はず、翁恠みて之を検するに炎熱赫々の間数日行李中の肉は悉く腐爛し了せり、翁の失望極点に達し瞬間の得意倏ち落膽の淵に陥り、其当時の困憊窮状名状すべからず、翁は歔欹嗚咽して血涙滂沱其善後の策を講ず、偶々親属淺井清一なる人開拓使少主典として函館に赴任するに邂逅す、愬ふるに実を以てし其急を済はむ事を請ふ、淺井少主典翁に誨ふるに艱難は無気力の人を驚嚇するも勇壮果断の人に対しては有益無二の良刺衝たり、汝宜く勇壮果断の人たれと翁に廿金を與ふ、斯の訓誨は千金に優るの資本なりと翁大いに喜び、廿金を携へて再び南部に到り生牛七頭を購ふて之を函館に輸入し、会所町に於て家屋を借入れ盛んに牛肉店を開始せり、爾来盛に生牛の輸入を謀り低価を以て一般に販売するに至れるを以て、牛肉の需用日に月に加はり盛んに函館に於て屠牛を開始す、乃ち函館屠牛業の濫觴なり、斯くして満腔の熱心を以て其業に励み健闘爰に十年一日の如く、産年と共に加はり、家業益々隆昌に赴くや業務の拡張発展を企画し、同四十四年(※十四年の誤りか?)に至り大黒町に壮大華麗なる洋館を新築し、爰に函館全市を飾るべき大ホテル、西洋料理店を開き、傍ら英、露、仏諸国の東洋艦隊の食料品売込みを請負ふ、時の函館県令時任為基翁の為人を愛して眷顧頗る敦し、翁感奮益々其業に精励するに至り業層々栄へ、収むる所の利純巨額に及んで産大いに成るや、子孫百年の計を策し、上磯郡清川方面其他に農耕地数百町歩を購入せり、同十八年に至りホテル及西洋料理店の営業全部を使用人磯村義廉に譲渡せり、時恰も亀田に於て第五聯隊の設置あり、大倉組より御用達代理店を嘱託せられ、同廿五年同隊の廃止と共に之を廃業せり、其年挙家清川村の農場所在地へ転居し爾来開墾耕耘に従事し、自から犁鋤の労働を事とし農産品の改良を謀り、地方産業の発達に努力し、拓く処の田数百町歩に及ぶ、曾て村惣代、村会議員、農事員、学務委員、徴兵参事員等の公職に挙げられ、曾て沖川小学校舎改築の挙あるや、工事監督の任に膺り此間自家の業を顧みず、而も私財を投じて匠工を慰藉督励して其工を速かならしめ、工竢りて落成の式典を挙るや一切の費用を自弁支出し、私費を抛て校舎の周囲に数百本の落葉松を植栽し、以て風致を添へ防風に便す、職員の優遇に意を濺ぎ私財を捐する事少からず、殊に敬神の念深く仏教の帰依厚く浄財の寄捨を吝まず、又は村有財産の基金造成に意を注ぎ多年の努力空しからず、今や其の額八百有余円に達す、又大正二年凶歉に際し部落窮民の救済に尽瘁せる功労不少廉を以て銀杯一個授与表彰せられ、其他木杯感状を授与せられし事枚挙に遑あらず、明治七年郷里より実母マサ子を迎へ孝道を怠らず至孝の名高く、明治卅五年八月卅一日マサ子刀自享年七十四歳を以て永眠するや、清川村の廣徳寺中に厚く葬りて展墓を怠らず、翁や明治四年徒手空拳蝦夷に航し、函館に■(※足へんに主)爾来千辛万苦備さに百難を排し、艱難に克ち一時卑賤の業に躬を窶し、奮闘茲に五十年曾て初志を挫かず、実践躬行終始一貫して本道拓殖の大業を進めて邦家の為めに微力を効し、業成り名遂げ、今や上磯町有川河の流清き有川橋畔風光明媚なる、近く臥牛の山容は嬉ふて翁の健在を邀へ、邈洋として遠く陸奥の諸山連峰は、翁の成功を祝福して羨望の媚を呈すべき、山水景勝の地を相して邸墅を建設し、斯の楽園に風月を友とし優悠自適七十五歳の高齢を以て钁鑠尚壮者を凌ぐの慨あり、現に農耕地数百町歩に小作人五十戸を収容し、農業経営の傍ら造林事業を奨励し、翁自から壮丁を督して其業を廃さヾる事旧の如く、其精力の絶倫意志の堅実なる後人の師表とすべく、嗣子豊吉職を法衙に奉じて令名あり、愛婿分家神山雄次郎は樺太に於て鰊建網漁業を経営して盛名あり 愛孫十一人ありて一家一門の繁栄する亦以て翁が五十年健闘の賜たりと云ふべし。

参考

  • 川島智生『明治中期の北海道における開拓農場主住宅について—函館近郊上磯町の旧神山繁樹邸からみえてくること—』「神戸女学院大学論集57巻1号(2010)」p.27-45
     この論文のなかで著者は、旧神山繁樹邸が明治5年に札幌で建設された通称「ガラス邸」と呼ばれた開拓使官舎をモデルにしていた可能性があると述べている。
     なお、以下気になった点を挙げる。

    • 1章の「4節. 和洋折衷の棲み分け」(p.31)冒頭の「ほぼ近接した面積を示す。」は和室のことか?
    • 「3章. 上磯郡清川村」の冒頭(p.40)、「平成17年(2005)年に北斗市となった」とあるのは「平成18年(2006)年に北斗市となった」の誤り。
    • 4章の「2節. 清川村へ」中(p.42)「明治18(1895)年に、神山繁樹は函館を去り、清川村に移住する。47歳の時である。」とあるが明治18年であれば1885年であり、まだ36〜37歳の頃となる。
    • 結語の1)(p.43)中「現北杜市」とあるのは「現北斗市」の誤り。

葛登支岬灯台

葛登支岬灯台に関する古いパンフレットが手に入った。

葛登支岬灯台は明治17年4月8日に着工し、翌18年12月15日に完成している。明治18年は西暦1885年であり、葛登支岬灯台創設百年記念とあることからこのパンフレットが作られたのは1985年頃か。今から約30年前のものということになる。

『上磯町史』によれば、明治4年に弁天岬付近に灯船が配置。明治6年に函館〜青森間の定期航路が開設された。これ以降、函館港を行き交う船舶が増加し、灯船だけでは対応が難しくなったことから、弁天岬と向かい合う葛登支岬に灯台が建設されることになったらしい。

上の写真はパンフレットに挿入されていたものだが、『上磯町史』にも同じ写真が掲載されており、そのキャプションでは「葛登支岬航路標識事務所(昭和初期)」と記載されている。

航路標識事務所制が発足し、葛登支岬航路標識事務所となったのは昭和28年8月、これが廃止されたのは昭和61年4月。以降、職員常駐はなくなった。

 

葛登支岬灯台百年のあゆみ(葛登支岬灯台創設百年記念協賛会)

“津軽海峡のみちしるべ”
葛登支岬灯台は、明治17年4月8日建設に着手、翌明治18年12月15日完成し、以来今日まで津軽海峡の安全を祈りながら100年点灯を続けております。
北海道では、根室市の「納沙布岬灯台」小樽市の「日和山灯台」稚内市の「宗谷岬灯台」に次いで四番目に古く、道南では最初の灯台です。
本灯台で使用しているレンズは、大型第三等レンズというフランス・バビエ・フェネスタ社製のもので初点灯以来今日まで航海者にやさしい光を与えてきました。
また、明治25年4月には、霧、吹雪等の視程障害に対処するため霧信号所として霧鐘を設置し、昭和24年8月モーターサイレンに改造されるまで57年の長い間航行船に親しまれ航海の安全に寄与してきました。
※この霧鐘は、明治10年11月我が国最初に青森県尻屋埼灯台に取付けられていたものを移設した。同鐘は、城ヶ島灯台博物館に展示後、現在は社団法人灯光会に保存されている。
この間、技術の進展とともに灯台の光源は石油灯〜電灯へ、霧信号も霧鐘〜モーターサイレン〜ダイヤフラムホーンへと変遷をとげ現在に至っております。

葛登支岬灯台、霧信号所の要目
1、葛登支岬灯台 現在地 北海道上磯郡上磯町字茂辺地749番地
位置 北緯41度44分22秒 東経140度36分11秒 塗色 白色 構造 円形 鉄筋コンクリート造 灯質 明暗白光 明6秒 暗4秒
光度 50,000カンデラ 光達距離 18.5海里 高さ 地上から頂部まで15.75メートル 海面上から灯火まで45.90メートル
2、葛登支岬霧信号所 吹鳴周期 毎11秒をへだて、3秒吹鳴、5秒停鳴 3秒吹鳴、5秒停鳴、3秒吹鳴 機械種別 ダイヤフラムホーン2連式


当別の土偶〜その2

『蝦夷島奇観』はいくつもの写本があるらしく、当別の土偶に係るページについてデジタルアーカイブとして公開されているものはあまり多くない。先日の北大データベースと、北海道開拓記念館のサイトのもの(以下)しか発見できなかった。

ただ、『上磯町史 上巻』(p.164)に掲載されている土偶の図版は、北大、開拓記念館、いずれのものとも異なっていて、どこに所蔵されている写本なのかはわからない。市立函館博物館のデジタルアーカイブにて公開されているものかとも考えたが、この土偶のページはサイト上では見つけられなかった。

 

 

■出典 北海道開拓記念館>蝦夷島奇観(近夷地雑図部)(2014年3月26日アクセス)


当別の土偶

江戸幕府の役人であった村上島之丞(秦檍丸)による『蝦夷島奇観』は、約200年前の北海道で営まれていたアイヌの人々の生活や文化を知るうえで貴重な資料となっているが、そのなかに、当別で出土したとされる土偶について記載がある。

上記は北海道大学の北方資料データベースに掲載されている写本のデータだが、寛政10年春、當別村氏神の祠横から掘り出されたとある。顔にある細かな点は入れ墨を表しているものと考察されている。

写実的な頭部や胴体から、おそらく縄文時代後期〜晩期の土偶ではないかと推測されているが、確かに、同時期のものとされる函館市の国宝、中空土偶とも、なんとなく似ているように感ずる。

残念ながらこの土偶、その後どこにいってしまったのか不明らしい。

 

 

■出典 北海道大学北方関係資料総合目録>蝦夷奇観 / 村上嶋之允 (37 / 51 ページ)(2014年3月25日アクセス)