上野一覧

秋色桜

上野公園内にある桜。固有名詞が付けられている点が珍しい。

説明板に記された名称の由来はとても興味深い。菓子屋の娘のサクセスストーリー。

 

秋色桜

2011年5月14日撮影。すでに桜の時期が過ぎていたため、歌碑のみ撮影。

台東区設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

秋色桜(しゅうしきざくら)

台東区上野公園1番

上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。

井戸ばたの

桜あぶなし

酒の酔

この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時13歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。

お秋は、9歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保10年(1725)没と伝えられる。

碑は、昭和15年10月、聴鴬荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和53年に植え接いだもので、およそ9代目にあたると想像される。

平成8年7月

台東区教育委員会

SHUSHIKI CHERRY TREE

Ueno was very famous as a place of cherry blossom from the beginning of the Edo era. There were many species of cherry trees and some trees had even their own names; a typical one of them is the Shushiki Cherry Tree.

In the Genroku period, a daughter named Oaki of a sweet shop in Koamicho, Nihonbashi wrote a Haiku poem, “Cherry blossom near a well are in danger by drunken fellows.” This expresses a scene of crowded cherry blossom viewers near a well. She was only 13 years old at that time, but had a pen name of Shushiki. Therefore, this cherry tree near the well was called “The Shu-shiki Cherry Tree.”

 


西郷隆盛の銅像

日本で最も有名な銅像の一つが、ここ上野公園の西郷隆盛像だろう。

銅像もそうだが、人物としての西郷隆盛も有名であり、多くの人に慕われている。

 

西郷隆盛の銅像

2011年5月14日撮影。足下の碑の内容は以下のとおり。

 

西郷隆盛君之偉功在

人耳目不須復賛述前

年 勅特追贈正三位

天恩優渥衆莫不感

激故吉井友實興同志

謀鑄銅像以表追慕之

情 朝旨賜金佽費捐

資賛此擧者二萬五千

餘人明治二十六年起

工至三十年而竣乃建

之上野山王臺記事由

以傳後

 

 

西郷隆盛の銅像

2011年5月14日撮影。銅像脇の石碑に書かれた内容は以下のとおり。

 

敬天愛人

西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加治屋町に生まれた。通称吉之助、南洲はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は、故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7ヵ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

 


彰義隊の墓

幕末に新政府軍と対峙した彰義隊。上野戦争において、この地に壊滅した。

 

彰義隊の墓

2011年5月14日撮影。

 

墓域内に設置された説明板の内容は以下のとおり。

 

彰義隊の墓

15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年(1868年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。

生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。

Grave-yard of Shogi-tai soldiers in the Ueno War

There was a war called the Ueno War around here in May 15, 1868. It delimited Edo era and Meiji Restoration. In this war, a soldier group of Tokugawa persons’ (old government) named Shogi-tai fought fought against the army of the new government and was defeated.

Okisato Ogawa and his comrades, who were the survivors of Shogi-tai, obtained the permission of Meiji government at last in 1874 and built the grave-yard of killed soldiers. Afterwards, the grave-yard of Shogi-tai was preserved by the Ogawa clan for over 120 years, and succeeded by Tokyo Metropolitan government in 2003. We learn the history of the Ueno War thanks to such an effort now.

 

 

彰義隊の墓

2011年5月14日撮影。

台東区設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

彰義隊の墓(台東区有形文化財)

台東区上野公園1番

江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。

慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。

正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

平成8年3月

台東区教育委員会

TOMB SITE OF SHOGI-TAI SOLDIERS

Shogi-tai was an army of the Edo shogunate, which was organized in 1868 to fight against the Emperor at the end of The Edo era. They fought around here on fifteenth of May in the same year. In those days Ueno-no-yama (Ueno hill) was in the precincts of Kan-eiji temple (Tokugawa shogunate’s family temple), where there were many temples and pagodas. But the battle was so intense that almost all of them were destroyed. The Shogi-tai was defeated by the evening of the day. The fight is called Ueno war or fight of Shogi-tai.

These two tombstones were erected for the Shogi-tai soldiers killed here. The small tomb stone in the front was erected by a priest of Kan-eiji temple in 1869 and the large stone in the back by a survivor, a soldier called Ogawa Okisato and several of his comrades.

These tombstones were registered ad important cultural assets in 1990 in the Book of Cultural Assets of Taito City.

 

 

彰義隊の墓

2011年5月14日撮影。記載の内容は以下のとおり。戦時の状況を忠実に表しているとのこと。

 

彰義隊奮戦之図

小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。

Figure on brave fighting of Shogi-tai against the soldiers of new government in Ueno War.

It is said that because this picture was drawn according to the instruction of Okisato Ogawa who was one of the survivors of Ueno War, it is a faichful picture to the historical fact unlike other color prints.

 


天海僧正毛髪塔

上野公園内にある天台宗の僧天海を祀った供養塔。

 

天海僧正毛髪塔

2011年5月14日撮影。

 

天海僧正毛髪塔

2011年5月14日撮影。

 

天海僧正毛髪塔

2011年5月14日撮影。左側の石塀が倒れておりトラロープが張られていた。地震によるものだろうか。

 

台東区教育委員会設置の説明板の内容は次のとおり。

 

天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)

台東区上野公園1番

天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。

天文5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年(1625)に寛永寺を創建した。

寛永20年(1643)に子院の本覚院にて108歳で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。

平成15年3月

台東区教育委員会

Hair Pagoda For Priest Tenkai (Metropolitan Historical Site)

Tenkai (1536-1643) was a high priest of the Tendai Sect at the beginning of the Edo Period. He was also known as Jigen Daisi. He took orders at age 11. At 14 he climbed Mt. Hiei and began formal training in the precepts of Tendai Buddhism. With the founding of the  Tokugawa bakufu government at Edo (Currently Tokyo) , Tenkai received the favor of Tokugawa Ieyasu. Upon the death of Ieyasu, he was permitted to take a saintly name in order to deify the Tokugawa founding shogun. At roughly the same time the basic designs of the shrine at Nikko were being laid out and Tenkai served as an advisor in its construction. Following this, he also benefited from the attention of both Shoguns Hidetada and Iemitsu and was installed at the newly built Kaneiji Temple in 1625 for the spiritual protection of Edo Castle.

In 1643, at the age of 108 he passed away at Hongakuin Temple, a branch temple of Kaneiji, and as ordered, was buried on Mt. Nikko. A pagoda to commemorate him was built at this site, and later, priest of Hongakuin built a second pagoda in order to house a lock of his hair. Thus this pagoda has come to be called the Hair Pagoda.


上野のパンダ橋

上野駅公園口の横に東西をつなぐ連絡橋が設置されている。

パンダ橋という名称は公募により決まったとのこと。また、パンダ橋と刻まれた石碑は、接触変成岩の一つで白と黒の色合いから「パンダ石」とも呼ばれているらしい。

 

パンダ橋

2011年5月14日撮影。パンダ橋石碑の裏面には「平成12年10月吉日 竣工」と刻まれている。

パンダ橋説明板の内容は以下のとおり。

 

パンダ橋

パンダは上野をイメージし、子供から大人まで広く愛されています。この橋の名は、温か味がありかつ覚えやすいことから、公募により決まりました。

なお、この石は接触変成岩(せっしょくへんせいがん)のひとつで、花崗岩(かこうがん)マグマが上昇中に砂岩(さがん)や頁岩(けつがん)などをとりこんでできたもので、白と黒のコントラストの面白さからパンダ石と呼ばれています。

台東区

 

 

パンダ橋

2011年5月14日撮影。

この近辺には遺跡があったらしく、台東区設置の説明板が設置されている。内容は以下のとおり。

 

上野駅東西自由通路建設地点の遺跡

台東区上野公園5番

東京都立上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代〜近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永11年(1634)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、1678年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、18世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。

当地は平成10年(1998)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に17世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分整地されて墓所となっており、19世紀頃の板石組の石槨墓(せっかくぼ)(5基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出土した。

近世以前では縄文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の銅製耳環)が出土し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。

1998年発掘調査での出土遺物は平成12年度台東区有形文化財(考古資料)に登載されている。

平成15年3月

台東区教育委員会

The Remains of Sites Along the Ueno Station

Within the grounds of Ueno Tokyo Metropolitan Park are the clustered ruins of Ueno Shinobugaoka. Containing archeological sites spanning from the Jomon era ( ca. 8000-300 B.C. ) up through the early modern period ( 17th -mid 19th centuries ) , this area was once part of the Kaneiji Temple complex. The actual ruins are located along the southeast edge of the Ueno plateau. From 1634 this was part of a branch temple of Kaneiji-Joshoin-however in 1678 it became Ryounin Temple. From the middle of the 18th century, Ryounin came to serve as the burial site for the three powerful houses of the Tokugawa bakufu ; the Tayasu, Hitotsubashi,and Shimizu families.

During an excavation in 1998 it was discovered that the northeast side of this site contained terrace and an underground chamber etc. in 17th century. The remains are thought to be associated with Joshoin. In 19th century the north side was leveled in order to make a graveyard. Relics recovered from the underground chamber include Chinese porclean, copper lamps, and unglazed hajishitsu plates embossed with pine-bamboo and crane-turtle motifs.

Remains from early Jomon, latest Yayoi ( 3th ) , later Kofun ( 6th-7th ) ,Nara ( 710-794 ) , and Heian ( 794-1192 ) periods have been discovered, including the carbonized roof from a Kofun period dwelling that burned down. From the remains of the house fire, unglazed hajiki cups and kinkan ( gold and silver embossed bronze earrings ) have been recovered.

 


「あゝ上野駅」歌碑

上野駅広小路口近くに昭和の名曲「あゝ上野駅」の歌碑がある。

高度成長期、多くの若者が「金の卵」と呼ばれ上京。そうした若者にとって、ここ上野はまさに東京の玄関口となっていた。

 

「あゝ上野駅」歌碑

2011年5月14日撮影。

 

「あゝ上野駅」歌碑

2011年5月14日撮影。歌碑に刻まれた内容は以下のとおり。

 

あゝ上野駅

作詞 関口義明

作曲 荒井英一

唄 井沢八郎

一、

どこかに故郷の 香りを乗せて

入る列車の なつかしさ

上野は おいらの 心の駅だ

くじけちゃならない 人生が

あの日ここから 始まった

二、

就職列車に ゆられて着いた

遠いあの夜を 思い出す

上野は おいらの 心の駅だ

配達帰りの 自転車を

止めて聞いてる 国なまり

三、

ホームの時計を 見つめていたら

母の笑顔に なってきた

上野は おいらの 心の駅だ

お店の仕事は 辛いけど

胸にゃでっかい 夢がある

 

 

歌碑の由来

高度成長期の昭和30〜40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。

親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あゝ上野駅』は、昭和39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。

この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あゝ上野駅』の歌碑を設立するものである。

平成15年(2003年)7月6日

歌碑設立委員会・発起人

総括責任者 深澤 壽一

 

 

「あゝ上野駅」歌碑

2011年5月14日撮影。碑に刻まれている上野駅に下りた当時の若者たちの写真。

 


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