函館大火一覧

読売新聞編集手帳に函館大火

今日の読売新聞、編集手帳にて函館大火が取り上げられてました。

寺田寅彦が「函館の大火について」と題した随筆で、火事全般を論じている。地震や雷のような自然現象ではなく、おやじのように自由意志を持つ存在でもない。99%は人の不注意で起こる…。<それだから火事は不可抗力でもなんでもないという説は必ずしも穏当ではない>◆なぜなら人間が<過失の動物>であるのは動かし難い事実だから―深い洞察をにじませつつ、もう一ひねりを論考に加える。この過失は軽減し得ると◆昨年末に新潟県糸魚川市であった大火の記憶も生々しい中で、火事のニュースが相次ぐ。”過失軽減”への努力が正しく続いているか、点検する頃合いかもしれない。3月の最初の7日間は全国火災予防運動の期間でもある◆強い風が吹くせいか春先は火事が起きやすい。近年の統計から月別の出火件数の平均値をはじくと、3月が最多と出る◆随筆の題にある函館の大火も1934年(昭和9年)の3月21日に起きた。1万棟以上が焼け、2000人余が犠牲になったという。<烈風が吹きつのり>と文中にある。春の風は火の粉も飛ばす。花粉症のシーズンは火の用心の季節である。
(2017.3.5 読売新聞 編集手帳)

寺田寅彦の「函館の大火について」は、青空文庫で読むことができます。
今ではそんなイメージはないものの、函館はたびたび大火に見舞われた火災のまちです。

青空文庫>寺田寅彦「函館の大火について」


函館大火慰霊堂、慰霊塔

函館大火慰霊堂は、大森公園内に昭和13(1938)年に完成。

昭和9年の函館大火の際、この慰霊堂の横を流れる亀田川において多くの凍死者、溺死者を出している。

函館大火慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面斜め

2008年7月6日撮影。

 

記念塔、慰霊塔、慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔〜下から

2008年7月6日撮影。

 

記念塔の板碑に刻まれている内容は以下のとおり。

 

函館大火災惨害記念塔建立由来

「昭和9年(1934年)3月21日夕刻に住吉町より発生した火災は、史上稀にみる烈風に煽られ市街地は一夜にして焼土と化し、その罹災者は約10万2千人を数える大惨事となり、死者行方不明者は2千8百28人を数えるに至った。
折悪しく、市街地を縦断する新川(亀田川)に掛かる、此処「大森橋」は渦巻き吹き上げ迫る猛火に逃げ惑い追われる人々が、唯一の避難路として殺到する中、その橋も瞬く間に炎焼し身動きとれぬ人々は、寒波厳しい横殴りの風雪を伴って、荒れ狂う浜風で怒濤逆巻く川に投げ出され高潮に呑まれるなどの惨状を呈し、一夜明けたこの川辺一帯は、溺死凍死焼死者が折り重なっての、悲惨壮絶を極めた受難の地と化していた。
この受難者の霊を慰め祀らんと、慰霊堂建設の計画が立てられ昭和12年(1937年)5月、市はその基礎工事に着手した。
この慰霊堂の建設に呼応し、在市の宮本武之助(函館商工会議所副会頭)は、慰霊堂と一対をなす、「五重の塔」(慰霊塔)の付設建立寄進を申し出、その許しのもと自らも私財を供し、宗教団体(京都を本拠に慰霊活動をする「弘安海」)の大きな協力を得るなどの奔走の中、この五重の塔の完成をみた。
因みに、この塔の材質は花崗岩を選び、京都の嵯峨・大覚寺に納められんとした由緒や、その秀れた石組みの技法など貴重にして高いものがあると云われ、船により運ばれ此の地において組立てられ建立を見たものである。
塔の最上五層の中軸柱の頂部中心には、水晶の珠を捧げ持つ精巧な青銅の龍神の彫像が祀られ、又、地下の基礎には全国から寄せられた叺(かます)が49俵の「写経石」がコンクリートと共に練り込み納められ、その安らかなる霊への哀悼が深くこめられ塔を支えている。
又、本堂たる慰霊堂はその基礎工事に着手はしたものの建築材料の暴騰によりその財源捻出に苦慮する中、思わぬ建設計画の遅れに悩む坂本森一市長に協力しこれにも宮本武之助は、その円滑なる事業の完成にと篤志の寄附を、自らの倹約励行をもって申し出るなど、慰霊堂の建設(総事業費約11万4千円)に大きな貢献をなしている。
かくして昭和13年(1938年)10月8日、本堂を埋める多くの人々の参列のもと、入仏落慶式がいとも厳粛な中、盛大に挙行され無事その完成をみたのである。」

あまたの御霊安らかにましませ

この記念塔建立由来板は、本塔の建立に多大な貢献をされた故宮本武之助氏長男である宮本徹也・靖子御夫妻が作製され、本市に寄贈されたものです。

平成13年(2001年) 函館市