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五稜郭の文化価値を考える会設立5周年記念講演会・シンポジウム

五稜郭の文化価値を考える会設立5周年に際し、基調講演・シンポジウムが開催されます。

日時: 令和元年9月12日(木) 13:30〜17:00
会場: 北海道教育大学函館校 14番講義室(函館市八幡町1番2号)
定員: 150名
参加費: 500円

  • 基調講演「近世囲郭としての五稜郭の特異性〜日欧比較地誌の観点から〜」 戸祭由美夫氏(奈良女子大学名誉教授)
  • シンポジウム「五稜郭の文化価値と世界文化遺産登録への道」
    • パネラー 戸祭由美夫氏(奈良女子大学名誉教授)、小林和美氏(大阪府堺市役所 文化観光局文化部文化財課)、田原良信氏(元箱館奉行所館長)

主催: 五稜郭の文化価値を考える会
共催: 函館日仏協会・函館の歴史的風土を守る会


第5回 郷土の歴史講座「洋学史学会函館大会 北海道の洋学と対外交流」

函館市中央図書館の郷土の歴史講座の一環として以下のとおり開催されるそうです。

  • 日時: 令和元年9月7日(土) 12時30分〜17時00分(開場12時)
  • 開場: 函館市中央図書館 視聴覚ホール
  • 定員: 150名 入場無料 入退室自由

■基調講演

  • 12:50~13:30「箱館の通商開港と諸術調所・洋学」 清水憲朔氏(はこだて外国人居留地研究会会長)

■研究報告

  • 13:30~14:00「薩摩藩士肝付兼武と幕末の箱館」 塚越俊志氏(法政大学第二中高等学校非常勤講師)
  • 14:10~14:40「「開拓使」という経験:植民地経営と西洋文明の受容」 武藤三代平氏(北海道大学大学院文学研究科)
  • 14:40~15:10「ライデン大学蔵「蝦夷草木之図」並びに「蝦夷ケ島言語」の成立過程とその活用と評価について」 桂川靖夫氏
  • 15:10~15:40「シーボルトに贈呈された最上徳内作製の材の標本の説明」 加藤僖重氏(牧野標本館客員研究員)
  • 15:40~16:10「幕末期長州藩と海外留学生」 小川亜弥子氏(福岡教育大学)

■シンポジウム

  • 16:30~17:00「幕末期箱館の洋学史における位置」

参考


傷心惨目の碑

傷心惨目の碑

  • 2019年4月13日訪問。

説明板

傷心惨目の碑

傷心惨目の碑
明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり、旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。
明治12(1879)年高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、惨殺された藩士を供養した。
碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。
函館市

MEMORIAL OF “SHOSHIN ZAMMOKU”
On May 11, 1869(Meiji 2) the fiercest battle of Hakodate War was fought in downtown Hakodate. At that time Koryuji Temple was located at the foot of the slope where it stands now and it was used as a branch of Hakodate Hospital for deserted soldiers of the old Shogunate army.
On this day spearhead force of the new government’s army burst into the temple and killed the sick and wounded in bed, then set fire to the temple. The Aizu clan forces which fought against the new government paid dearly in human cost in this battle.
In 1879 (Meiji 12) Koryji Temple was moved to its present location and the following year the supporters of the Aizu clan erected this monument in memory of those who were murdered in this attack.
The Chinese characters on the monument read, “Shoshin Zammoku” or “mourning an ancient battlefield.” These are the words of Rika, a Chinese literary man of the Tang period (618-906). The characters were traced over the genuine writing of Gakuhi, a faithful retainer of Southern Sung(1127-1278), China.
CITY OF HAKODATE

場所


高龍寺蔵 蠣崎波響筆 釈迦涅槃図

釈迦涅槃図

高龍寺宝の蠣崎波響筆釈迦涅槃図。毎年4/1〜4/15まで一般公開されます。かなり見応えがあります。

2019年4月13日訪問。

以下、キャプションより。

釈迦涅槃図(北海道指定有形文化財)蠣崎波響筆
涅槃図では珍しく双幅の形式をとっており、一切の煩悩から解脱し入滅する釈迦とそれを見取り悲しむ僧侶や貴人、俗人に至るまでの人々、さらに動物から植物にいたる森羅万象がその安心立命を思うさまを描き、右側には多分の余裕を持たせながら、構図の拡がりを効果的に利用している。動物は多種が描かれ、トラやサル、ウサギなどは応挙風に描かれ、ミミズ・カタツムリ・トンボ・カマキリ・ホタルなど、小さな生き物への愛情さえ感じさせる描写もある。多種多様の鳥の毛や羽の描き方などは博物図譜を思わせ、当時の博物学(自然誌)の隆盛が波響の釈迦涅槃図に大きく影響していることがわかる。通常、東西南北2本ずつ合わせて8本描かれる沙羅双樹の木が11本となっていることは異例である。
波響はこの年48歳、松前の復領や肺患に悩みながら生涯に残すべく、彼の持つ総力を結集したものである。
この絵の款記には次のように記されている。
時文化辛未秋九月為松前函館奥山高龍寺十一世禅海上人
蠣崎源廣年斉沐
拝手写於波響樓
※當山では、毎年涅槃会法要にあわせ、4月1日〜15日まで釈迦涅槃図を一般公開しています。

蠣崎波響(1764〜1826)<本名—廣年>
松前藩第7代藩主資廣の5男として生まれ、翌年、家老蠣崎家の養子となる。幼少期は江戸で過ごし南蘋派の建部綾足に学び、のちに宋紫石について画風を学ぶ。18歳になった波響は、松前に戻り家老見習いとして藩政に携わる一方、大原呑響や円山応挙に師事し画風を南蘋派から円山派に大きく変化させた。
1807(文化4)年、幕府は松前藩を格下げし、奥州梁川(現在の福島県)へと移封することになった。この懲罰的移封は藩主で波響の兄にあたる道廣(第8代)の豪慢と当時懸案化してきた北方問題にあったと云われている。
44歳となり家老として藩政の中枢を担っていた波響は、梁川移封後も松前への復領に心血を注いでいた。こうした状況の中、文化8年、交友のあった高龍寺11世華重禅海住職の頼みであった釈迦涅槃図を制作する為函館に渡る。この時の波響は、家老の職にあったとは思えないほど精力的に絵を描き続け、次々と名品を生み出し画人として最も円熟した時期であった。1821(文政4)年、復領し松前に戻った波響は家老の職を退き1826(文政9)年、63年の人生に幕を閉じた。
波響のその他の作品は、クナシリ・メナシの蜂起で松前藩に協力したアイヌの首長を描いた「夷酋列像」が代表作として知られている。
<當山では釈迦涅槃図の他に四時競色図・羅漢図・鶴亀図を所蔵>



北海道新聞「学生との古銭調査紹介 3月退職の函館高専・中村教授講演 」

中国からアイヌ民族を介して北海道に伝わった「蝦夷錦(えぞにしき)」の研究などに尽力した函館高専の中村和之教授(62)=東洋史=が本年度末での定年退職を前に21日、函館市戸倉町の同校でこれまでの研究について振り返る記念講演会を開いた。

中村先生、御定年だったとは…。


函館新聞「市立函館博物館「デジタルアーカイブ」リニューアル」

市立函館博物館は、収蔵資料の画像データをホームページ上で公開する「デジタルアーカイブ」をリニューアルした。考古、美術工芸など7分類100件の資料を公開。画像の拡大閲覧や検索などの機能を強化した。公開資料数を順次増やし、資料の活用促進につなげたい考えだ。

未来大学と連携し始めてから、函館のデジタルアーカイブはかなり進展した印象です。さらなるデジタルコンテンツの公開に期待してます。

市立函館博物館は、収蔵資料の画像データを・・・

史跡 志苔館跡

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

  • 2018年10月20日撮影。

説明板

志苔館

史跡 志苔館跡
昭和9年8月9日史跡指定
昭和52年4月27日史跡追加指定
志苔館跡は、函館市の中心部から約9キロメートル離れた標高25メートル程の海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2〜4メートル、幅10〜15メートルの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。
郭内は、東西70〜80メートル、南北50〜65メートルで、約4100平方メートルの広さがある。
また、館跡の正面にあたる西側には、二重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
松前藩の史書『新羅之記録』によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
この記述によれば、康正2年(1456)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。
戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。
函館市
文部科学省

志苔館

志苔館

場所


外国人墓地(プロテスタント墓地)

外国人墓地(プロテスタント墓地)

  • 2018年10月8日撮影。

説明板

外国人墓地(プロテスタント墓地)

外国人墓地(プロテスタント墓地)
誰というとなくこの墓地を外国人墓地と呼んでいますが、必ずしも外国人ばかりでなくキリスト教徒である日本人の墓も混じっています。
しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外国人墓地の名ができたのでしょう。
古くは、安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウオルフ(50才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など40基あります。
函館市

CEMETERY FOR FOREIGNERS
Almost all foreigners who died in Hakodate were buried in this CEMETERY.
Although some Christian Japanese Citizens were also entombed here.
When Admiral Matthew C. Perry, Commander of the American, entered Hakodate in April.
1854; two crewmen, Wolfe(50 years) and Remick(19 years) were buried here. Also included in the 40 graves are the Denmark Consul Duus, the German Vice-Consul Haber, and an English warehouse manager Scott.
City of Hakodate

場所


万平塚

場所は地蔵寺入り口。万平なる人物についての詳細は不明。

万平塚

万平塚

  • 2018年10月8日撮影。

説明板

万平塚

万平塚
石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。
ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。
一例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられてるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ…」などとある。
この塚は、大坂から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4(1915)年万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。
函館市

MANPEI’S GRAVE
Ishikawa Takuboku, a famous poet, once wrote a poem about a beggar walking around, muttering something precious and virtuous to himself. The beggar named Manpei was a popular figure who lived in Hakodate during the Meiji and early Taisho years.
He was a man of great spirit,and a good sense of humor, and he was never known to ask others for alms. Every morning he searched through garbage cans for food and wrote a simple description of each household he visited like a diary.
For instance, “November 1, 1906. Fine. First I went to rummage through the garbage can of Yamada Kunihiko (Mayor of Hakodate). Mr. Yamada’s wife, living a most civilized life, is as can be expected. Finding a piece of pork fat with some raddish peelings in the garbage, I suppose she is now learning Western cooking…”
When Fujioka Sobei, who was an ironmaster in Osaka, came to Hakodate on business, he asked Manpei to light his cigarette. He was rebuked for his impoliteness to have asked “Without taking off his hat” by Manpei.
Fujioka was so deeply impressed by Manpei’s character that after Manpei died in 1915 Fujioka built a grave stone for the repose of Manpei’s soul with the help of his friends in Hakodate.
CITY OF HAKODATE

場所


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