函館市一覧

ハーバー遭難記念碑

市立函館博物館への入口にある、明治7年にこの地で斬殺されたドイツ代弁領事ルードヴィッヒ・ハーバーを記念した碑。殺害は排外思想をもつ旧秋田藩士の手によるもの。代弁領事殺害という外交上の大問題に発展する可能性があったものの、ドイツ側の配慮により穏便に解決が図られることとなった。

2012年8月18日訪問。函館市観光標識の内容は次のとおり。

ハーバー遭難記念碑

ドイツの代弁領事ルードヴィッヒ・ハーバーは、明治7(1874)年2月に着任したが、同年8月11日、排外思想を抱き外国人殺害の目的で来函していた旧秋田藩士田崎秀親に、この碑の近くで斬殺された。

犯人は直後に自首、9月に処刑された。幸いドイツ公使館が、単独犯であることや適切な事後処理に理解を示したので重大な外交問題にならずにすんだ。

遺体は、事件の翌日、ブラキストンらにより外国人墓地に埋葬された。

この碑は、大正13(1924)年、甥のフリッツ・ハーバー(ノーベル賞受賞者)を迎えて没後50年祭を開催したときに、旧墓碑を遭難地に移し記念碑としたもので、外国人墓地には同型の新墓碑が建立されている。昭和19(1944)年には日本軍に持ち去られ一時行方不明になっていたが、昭和24年に土中より発見され、ここに建てられた。

函館市

MEMORIAL TO MR.HABER

Ludwig Haber, an acting consul of Germany, arrived at his post in February, 1874. On August 11, near this memorial, he was murdered by Tazaki Hidechika, Samurai of the former Akita clan who had been here for a chance to kill foreigners. He was an anti-foreigner.

Immediately after the murder, Tazaki gave himself up to the police and was executed in Septemer.

Since the murder was committed by a single person and the Japanese government executed the criminal at once, it was fortunate that the German Legation handled the incident in a very calm way and it did not have any serious diplomatic effects.

The day after he was murdered, Blakiston and other buried Haber’s body in the foreign cemetery.

On the 50th Anniversary of his death in 1924, his tombstone was moved from the cemetery to the place of the tragedy and has become his memorial. Haber’s nephew Fritz Haber ( a Nobel prize winner ) attended the unveiling ceremony. In the cemetery, a similar tombstone was erected to replace the original one.

In 1944, the memorial was removed by the Japanese army and had been missing, but it was found in the earth and was again erected here in 1949.

CITY OF HAKODATE


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明治時代のレンガ積みマンホール

ハーバー遭難記念碑側の函館博物館入口を少し進んだところに置かれている古いマンホール。昭和43年につくられ、昭和57年まで電話ケーブル収容設備として使われていたとのこと。レンガの積み方に特徴があるということで保存されているらしい。

一見文化財とは思えない外観。

内部の様子。

 

2012年8月18日訪問。函館電報電話局による説明板の内容は次のとおり。

明治時代のレンガ積みマンホール

このマンホールは、明治43年に築造され、昭和57年10月まで72年間にわたり、函館市内で電話の地下ケーブルを収容する設備として使われてきたもので「変形三味線形」と呼ばれております。

これは、明治43年、船場町に郵便局を新築する際、電話線の地下配線が必要となり豊川町から弁天町にかけて設置されたマンホール14個のうちの1個です。

レンガの積み方は独特のもので、函館の当時の姿をあらわす文化財として保存することにいたしました。

昭和57年10月22日

函館電報電話局


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函館博物館

函館公園の裏の方に博物館への入口がある。普段私は函館公園正面側からアクセスしているが、たまにはこちらから入ってみるのも面白い。ちょうど現博物館建物の真横を通って正面にまわるような格好となる。

入口右手には、明治7年にこの場所で旧秋田藩士によって斬殺されたドイツ代弁領事ルードヴィッヒ・ハーバー遭難記念碑が建てられている。

2012年8月18日訪問。函館市設置観光標識の内容は次のとおり。

函館博物館のあゆみ

函館の博物館の歴史は、明治12(1879)年lこ開拓使函館支庁仮博物場として開場したのが始まりである。

これは、開拓使顧問であるアメリ力人ホーレス・ケプロンが北海道の開拓政策推進のために博物館・図書館の設立を提言したことによるものであった。公園内lこある旧函館博物館の建物は、現存する地方博物館として日本で最も古く、昭和38(1963)年lこ北海道有形文化財に指定されている。

現在の市立函館博物館は、昭和41(1966)年に総合博物館として開館し、創立時の資料も継承して現在に至っている。

函館市

HISTORY OF THE HAKODATE MUSEUM

Hakodate Museum was officially founded in 1879. Initially it was a provisional museum of the Hokkaido Development Agency’s Hakodate branch.

Capron Horase, an American development adviser stated that the construction of a museum and a library was neccessary in order to enhance the development policy of Hokkaido.

The original building still standing in Hakodate Park is one of the oldest local museums existing in Japan and it was designated as a Hokkaido tangible cultual asset in 1963.

The present Hakodate Museum, which began as a general museum in 1966, has exhibited many materials including historical ones inherited from the original museum’s collection.

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箱館通寶銭座跡の碑

函館公園の博物館寄りの入口付近にひっそりと立っている「箱館通寶 銭座跡」の碑。

安政年間、本州との物流が活発化することにより、和人地(箱館、松前、江差)では銭不足が生じる。これに迅速に対応するため、幕府から箱館通寶鋳造が許可されたとのこと。

 

2012年8月18日訪問。碑の隣に設置されている函館古銭会による説明は以下の通り。

安政3年(1856年)幕府は、えぞ地(北海道)に限り通用として銭の鋳造を認め、当地尻澤辺村字谷地頭といわれた。

この地に北海道唯一の銭座を建てた。

銭文は箱館通寶、円孔の鉄の銭であった。

安政4年(1857年)4月より同5年11月までの鋳造高は10万650貫文という。

昭和52年10月 函館古銭会


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廣河ヌードルのつけ麺

つけ麺と言えば、どろっとした濃厚スープ(タレ?)に、ごろっとした麺をイメージされる方が多いのだろうが、私にとってのつけ麺とは、ここ廣河ヌードルのつけ麺であり、食欲をそそる「酸味」の効いたスープに大盛りの中麺をくぐらせて頂くというもの。

麺を大盛りにするか、普通盛りでライスをつけるか悩ましいところ。この酸味系スープに使っているチャーシューは、米を激しく要求してくるのである。

この日は廣河ヌードルたくまにて頂いたが、昭和店でも同じ味を楽しむことが可能。

2012年8月12日訪問。

廣河ヌードルたくま
北海道函館市石川町348-12
TEL 0138-47-6022


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函館中華山荘

函館中華山荘は、ロシア人墓地を高龍寺方向にほんの数歩進み、左の小道に入った奥にある。なかなかわかりにくい場所だが、赤茶色のレンガ塀が目印。

 

この細い道を下って左折。

2012年6月24日訪問。函館市観光標識の内容は次のとおり。

函館中華山荘

函館には、幕末から中国人が住み始めており、大半は海産物の貿易に携わっていた。この墓地は、明治9年(1876年)に、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことに始まる。当初の面積は、184坪(607㎡)しかなかったが、大正8年(1919年)に隣接の土地を買収し、466坪(1,538㎡)となった。この時に、周りをレンガ塀で囲み、現在のような体裁となった。

墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。

この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日目)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。

函館市

The Chinese Graveyard

There have been Chinese people living in Hakodate since the end of the Edo period, most of them being engaged in trade of marine products.

This graveyard dates from 1876 when six Chinese rented the land from the local development office in order to lay the remains of those Chinese who drifted in from Aomori Prefecture. It was only 607 square meters in area at the beginning. Through the purchase of neighboring land in 1919, the graveyard was extended to 1,538 square meters and also enclosed by a brick wall, giving it its present appearance.

In the graveyard, there are several monuments including a tiled roof shrine made of Japanese cypress and a stone monument for those who had no one to grieve for them ( called Chinese Gicho ).

The graveyard has been managed by Chinese residents of the area for generations. Every year in April and August, they hold a ceremony, in which they burn paper money, to pray for the souls of their ancestors.

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外国人墓地(ロシア人墓地)

1859年、ロシア軍艦アスコリド号乗組員を葬った墓が最古のものとされるロシア人墓地。函館とロシアとの関係の深さを物語る場所である。

2012年6月24日訪問。函館市観光標識の内容は次のとおり。

外国人墓地(ロシア人墓地)

ここが、ロシア人墓地として公式に認められたのは、明治3年(1870)のことで、当時の開拓使函館支庁と在函5ヶ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結されました。

最も古い墓は、1859年6月29日(露暦)のアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ボウリケヴィチのものです。

現在この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43基の墓があります。その中には、初代領事ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の読経者で、のちに魯学校の教師として活躍したヴィサリオン・サルトフも葬られています。

故国はるかなる異郷に倒れたロシア人も、この墓地で安らかに眠り続けるでしょう。

函館市

RUSSIAN CEMETERY

In 1870, this cemetery was officially recognized as a Russian cemetery.

At present, there are 43 greves including those of 25 Russian warship crewmembers.

Mrs. Goshkevich, wife of the first Russian consul in Hakodate, and Vissarion Sartov, a chanter at the church attached to the consulate and later a teacher at the National School in Hakodate, are also buried here.

Many Russians who have passed away in Hakodate now find their final resting place in this cemetery.

City of Hakodate


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プロテスタント墓地

函館湾を眼下にする丘上に位置している外国人墓地。今では函館の有名な観光スポットのひとつ。この場所は、早くから函館が開かれた港であったことを物語っている。

2012年6月24日訪問。函館市観光標識の内容は次のとおり。

外国人墓地(プロテスタント墓地)

誰いうとなくこの墓地を外国人墓地と呼んでいますが、必ずしも外国人ばかりでなくキリスト教徒である日本人の墓も混じっています。

しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外国人墓地の名ができたのでしょう。

古くは、安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウオルフ(50才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など40基あります。

函館市

CEMETERY FOR FOREIGNERS

Almost all foreigners who died in Hakodate were buried in this CEMETERY.

Although some Christian Japanese Citizens were also entombed here.

When Admiral Matthew C. Perry, Commander of the American Fleet. entered Hakodate in April. 1854;two crewmen, Wolfe ( 50 years ) and Remick (19 years ) were buried here. Also included in the 40 graves are the Denmark Consul Duus, the German Vice-Consul Haber, and an Engllsh warehouse manager Scott.

City of Hakodate

海側から見上げた墓地。正面に地蔵寺、その後ろに函館山が並ぶ。函館中華山荘の横からは、外国人墓地を見上げるようにして見ることができる。

こちら側に設置されている函館市観光標識の内容は次のとおり。

外国人墓地

山背泊といわれたこの地区は、開国後、函館寄港中に死亡した船員や在住外国人を葬る墓地として使われはじめました。

古くは安政元年(1854年)に没したアメリ力・ペリー艦隊の水兵や翌年にはイギリス艦隊の水兵の墓碑が置かれたほか、当時日本との国交はなかったものの多数の病人発生により急きょ入港したフランス艦隊の水兵がこの地で葬られたとの記録も残されています。

明治3年(1870年)には新たに力トリック墓地の設置について要望があり、開妬使は、改めて外国人専用の墓地として従来の英国(プロテスタント墓地)、ロシア(ロシア人墓地)に加え、フランスに力トリック墓地(現シャルトル聖パウ口修道女会墓地)を貸付け、明治9年(1876年)には、中国人墓地(現函館中華山荘)が加わり現在の外国人墓地が形づくられました。

函館市

CEMETERY FOR FOREIGNERS

This area, which used to be called Yamasedomari, was the original cemetery for sailors who died during their port call at Hakodate, and for foreign residents of Hakodate.

Gravestones for late sailors of Perry’s fleet and the first British fleet were placed here back in 1854 and 1855 respectively. In additlon, according to some records, French sailors who died of illness were buried here after the ship had to be rushed into port at Hakodate despite no diplomatlc relations with Japan at the time.

By the year 1870, Britain and Russia already had their own cemeteries here. Following a new demand for Catholic cemeteries, Hokkaido settlers decided to lend France a part of the area as a Catholic cemetery. It is currently a cemetery for the Congregation of the Sisters of St. Paul de Chartres.

In 1876 the cemetery for Chinese people, now called the Chinese Graveyard, became part of the larger Foreign Cemetery.

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ジンギスカン 松羊亭

函館を代表するジンギスカン店、松羊亭。食べ放題(飲み放題別)1,450円という安さから、宴会のみならず家族連れにも人気。オリジナルのタレが丸ラム肉とよく絡み、食べ過ぎること間違いなし。

四角い鉄板がポイント。

ラードを引いてから、野菜を焼きつつ肉で蓋をする。

ジンギスカン松羊店 函館市松蔭町18-35
電話:0138-55-2989


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有無両縁塔

外国人墓地の手前、地蔵寺境内入口付近にある有無両縁塔。現在の函館市船見町周辺に多くの遊廓があったことはよく知られている。この塔は、遊廓で働いていていた身寄りのない遊女たちを供養するため元治元(1864年)年に建てられたものである。

この塔を建てた人すなわち施主人として廓内遊女屋経営者の名が刻まれている。

2012年6月24日訪問。函館市観光標識の内容は次のとおり。

有無両縁塔

この「有無両縁塔」は、元治元(1864) 年lこ、当時の遊廓の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。

かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5(1868) 年lこ、その一画を山ノ上遊廓として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港|こ伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊廓も一層の賑わいをみせるようになった。

この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊廓で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。

函館市

MONUMENT OF UMU RYOENTO

This monument called “Umu Ryoento” was erected in 1864 in repose of abandoned women who worked in the “red light” districts. Funds for this monument were donated by those who managed prostitute houses.

In days gone by in a town called Yamanoue-cho (a neighboring area, now named Funami-cho), there was a lively red-light district. After the Hakodate magistrate granted a license and named this area the Yamanoue prostitute quarters in 1868 (Ansei 5), those houses renewed their quarters for the promotion of business.

Moreover, Hakodate port’s opening to foreign trade in 1869, brought visitors from every land and these quarters did a thriving business.

This monument reminds us of the fact that in the shadows of the port opening’s new age there existed women who had no choice but to work and end their lives here as prostitutes. The names of the donators are engraved on the pedestal.

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