函館市一覧

函館の消火栓

護国神社坂の歩道で見つけた消火栓。函館の消火栓は黄色いことで有名ながら、塗り替え作業時には茶色のような変わった色になる。

 

函館の消火栓

2008年9月15日撮影。現在はすでに黄色の消火栓に戻っているはず。


高田屋嘉兵衛銅像(2008年)

高田屋嘉兵衛銅像

2008年7月21日撮影。函館の発展に多大な貢献をした高田屋嘉兵衛の銅像。司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公としても描かれた。

 

函館市設置の観光標識の内容は以下のとおり。

 

高田屋嘉兵衛銅像
この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作著は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。 嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。 さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。函館市

THE STATUE OF TAKADAYA KAHEI
This statue was built in 1958 in commemoration of the 100th anniversary of Hakodate Port”s opening and also in honor of Kahei ”s achievements. It was made by the sculptor Yanagawa Goichi who was a native of Hakodate. Kahei was born on Awaji Island in 1769 and came to Hakodate at the age of 28、 He made great contributions to the initial development of Hakodate and returned to his hometown in 1818. He managed a shipbuilding and marine transportation business along with a fishery here in Hakodate and he developed the ocean lanes and fisheries in both Kunashiri and Etorohu Islands. He is also famous as the mediator of the Golovnin Incident、 a Russo-Japanese international conflict、 in spite of the fact that he was a civilian. This statue depicts him at the scene of Golovnin”s being handed over to the captain of the Russian warship Diana in 1813. He is in a traditional Japanese full dress of a hakama、 white tabi、 straw sandals and a sword. In his right hand he is carrying an admonition of the Matsumae magistrate and in his left hand he is holding the everyday cloths which he had changed from in the warship. CITY OF HAKODATE


立待岬(2008年)

立待岬の碑

2008年7月12日撮影。立待岬の碑。

函館山の下を進み、谷地頭を抜け、お墓を通り過ぎると立待岬。


立待岬の眺め1

2008年7月12日撮影。


立待岬の眺め2

2008年7月12日撮影。


函館市設置の観光標識の内容は以下のとおり。


この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ、すなわち、ここで魚を獲ろうと立って待つ)に困むという。18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。近くには石川啄木一族の基や与謝野寛、晶子の歌碑もある。   函館市

”CAPE TACHIMACHI ( YOKO-USHI ORIGlNAL AlNU PLACE NAME)”

TACHIMACHI is derived from the Ainu name for this cape YOKOUSHI. YOKOUSHI means the place where people stand and wait to catch fish. The present Japanese name is thus a translation of the Ainu words、 YOKO (to stand and wait for prey to come) and USHI (place)、 thus、 the Japanese Tachi Machi.
At the end of the 18th century when Ezochi (Hokkaido) became a place under the direct control of the Tokugawa Shogunate、 the shogunate built a fort in this area. During World War II、 citizens were prohibited to enter this mountain area because of the Fortified Zone Law. Currently、 many tourists visit here as a scenic spot to command a great view of the Tsugaru Straits. The poem monument of Yosano Hiroshi & Akiko and the tomb of the Ishikawa Takuboku family can be found very near here.CITY OF HAKODATE



函館大火慰霊堂、慰霊塔

函館大火慰霊堂は、大森公園内に昭和13(1938)年に完成。

昭和9年の函館大火の際、この慰霊堂の横を流れる亀田川において多くの凍死者、溺死者を出している。

函館大火慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面斜め

2008年7月6日撮影。

 

記念塔、慰霊塔、慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔〜下から

2008年7月6日撮影。

 

記念塔の板碑に刻まれている内容は以下のとおり。

 

函館大火災惨害記念塔建立由来

「昭和9年(1934年)3月21日夕刻に住吉町より発生した火災は、史上稀にみる烈風に煽られ市街地は一夜にして焼土と化し、その罹災者は約10万2千人を数える大惨事となり、死者行方不明者は2千8百28人を数えるに至った。
折悪しく、市街地を縦断する新川(亀田川)に掛かる、此処「大森橋」は渦巻き吹き上げ迫る猛火に逃げ惑い追われる人々が、唯一の避難路として殺到する中、その橋も瞬く間に炎焼し身動きとれぬ人々は、寒波厳しい横殴りの風雪を伴って、荒れ狂う浜風で怒濤逆巻く川に投げ出され高潮に呑まれるなどの惨状を呈し、一夜明けたこの川辺一帯は、溺死凍死焼死者が折り重なっての、悲惨壮絶を極めた受難の地と化していた。
この受難者の霊を慰め祀らんと、慰霊堂建設の計画が立てられ昭和12年(1937年)5月、市はその基礎工事に着手した。
この慰霊堂の建設に呼応し、在市の宮本武之助(函館商工会議所副会頭)は、慰霊堂と一対をなす、「五重の塔」(慰霊塔)の付設建立寄進を申し出、その許しのもと自らも私財を供し、宗教団体(京都を本拠に慰霊活動をする「弘安海」)の大きな協力を得るなどの奔走の中、この五重の塔の完成をみた。
因みに、この塔の材質は花崗岩を選び、京都の嵯峨・大覚寺に納められんとした由緒や、その秀れた石組みの技法など貴重にして高いものがあると云われ、船により運ばれ此の地において組立てられ建立を見たものである。
塔の最上五層の中軸柱の頂部中心には、水晶の珠を捧げ持つ精巧な青銅の龍神の彫像が祀られ、又、地下の基礎には全国から寄せられた叺(かます)が49俵の「写経石」がコンクリートと共に練り込み納められ、その安らかなる霊への哀悼が深くこめられ塔を支えている。
又、本堂たる慰霊堂はその基礎工事に着手はしたものの建築材料の暴騰によりその財源捻出に苦慮する中、思わぬ建設計画の遅れに悩む坂本森一市長に協力しこれにも宮本武之助は、その円滑なる事業の完成にと篤志の寄附を、自らの倹約励行をもって申し出るなど、慰霊堂の建設(総事業費約11万4千円)に大きな貢献をなしている。
かくして昭和13年(1938年)10月8日、本堂を埋める多くの人々の参列のもと、入仏落慶式がいとも厳粛な中、盛大に挙行され無事その完成をみたのである。」

あまたの御霊安らかにましませ

この記念塔建立由来板は、本塔の建立に多大な貢献をされた故宮本武之助氏長男である宮本徹也・靖子御夫妻が作製され、本市に寄贈されたものです。

平成13年(2001年) 函館市

 


旧函館博物館一号、二号

旧函館博物館一号

2008年7月4日撮影。旧函館博物館一号。地方博物館としては最古のもの。

案内板の内容は以下のとおり。

 

北海道指定有形文化財

旧函館博物館一号

指定年月日 昭和38年7月26日
構造 木造平屋建寄棟造瓦葺

この建物は、開拓使函館支庁が、北海道で発掘された考古資料やアイヌ民族資料、珍しい動植物などを広く収集して一般に展示公開するために明治12(1879)年に開場したもので、日本の地方博物館としては最も古い歴史があります。
明治初期に我が国に取り入れられた洋風建築のなかでも古い方に属し、当時としては珍しいアメリカ風の様式を取り入れています。
明治28(1895)年に函館区に移管され、その後「水産館」として資料を転じしていました。

 

旧函館博物館二号

2008年7月4日撮影。旧函館博物館二号。こちらも明治の洋風建築として、かなり古いもの。

案内板の内容は以下のとおり。

 

北海道指定有形文化財

旧函館博物館二号

指定年月日 昭和38年7月26日
構造 木造平屋建寄棟造杉厚柾葺屋根(現在トタン葺ペンキ塗)

右手にある一号館は明治12(1879)年に開拓使の廃止後、開拓使東京出張所仮博物場の収集資料を移管収蔵するために、函館県が明治17(1884)年に開館したものです。
明治28(1895)年に一号館とともに函館区に移管され、後に「先住民族館」として資料を展示していました。
函館県時代の官庁建築物としては、おそらく唯一のもので、また、現存する明治の洋風建築としては全国的にも古い方に属し、文化史的な意義も大きいものです。

 




東京のスーパーで見つけた北海道

近所のスーパー「ライフ」で見つけた北海道産の品。
アンテナショップも良いが、身近なスーパーで北海道(特に道南の産品)を探すのは楽しい。

探してみると結構見つかる。今回発見したのは平取のトマト、函館直送牛乳、そして塩辛。

塩辛については、作っている工場がちょっと前に住んでいた所と至近距離であるため、東京で出会えたことに感慨が深い。

 

 

北海道仕込みするめいか塩辛
「北海道仕込み するめいか塩辛」
製造は北斗市追分の株式会社三豊。近所に住んでいたので感慨もひとしお。

 

平取町産のトマト
平取町のトマト。
北海道でトマトナンバー1の平取町。北斗市も追い付け追い越せで頑張ってほしいです。

 

北海道函館直送3.8牛乳
「北海道函館直送3.8牛乳」
函館の牛乳。他の商品より30円ほど高く、ライフでは高級牛乳の位置づけ。