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葛登支岬灯台

葛登支岬灯台に関する古いパンフレットが手に入った。

葛登支岬灯台は明治17年4月8日に着工し、翌18年12月15日に完成している。明治18年は西暦1885年であり、葛登支岬灯台創設百年記念とあることからこのパンフレットが作られたのは1985年頃か。今から約30年前のものということになる。

『上磯町史』によれば、明治4年に弁天岬付近に灯船が配置。明治6年に函館〜青森間の定期航路が開設された。これ以降、函館港を行き交う船舶が増加し、灯船だけでは対応が難しくなったことから、弁天岬と向かい合う葛登支岬に灯台が建設されることになったらしい。

上の写真はパンフレットに挿入されていたものだが、『上磯町史』にも同じ写真が掲載されており、そのキャプションでは「葛登支岬航路標識事務所(昭和初期)」と記載されている。

航路標識事務所制が発足し、葛登支岬航路標識事務所となったのは昭和28年8月、これが廃止されたのは昭和61年4月。以降、職員常駐はなくなった。

 

葛登支岬灯台百年のあゆみ(葛登支岬灯台創設百年記念協賛会)

“津軽海峡のみちしるべ”
葛登支岬灯台は、明治17年4月8日建設に着手、翌明治18年12月15日完成し、以来今日まで津軽海峡の安全を祈りながら100年点灯を続けております。
北海道では、根室市の「納沙布岬灯台」小樽市の「日和山灯台」稚内市の「宗谷岬灯台」に次いで四番目に古く、道南では最初の灯台です。
本灯台で使用しているレンズは、大型第三等レンズというフランス・バビエ・フェネスタ社製のもので初点灯以来今日まで航海者にやさしい光を与えてきました。
また、明治25年4月には、霧、吹雪等の視程障害に対処するため霧信号所として霧鐘を設置し、昭和24年8月モーターサイレンに改造されるまで57年の長い間航行船に親しまれ航海の安全に寄与してきました。
※この霧鐘は、明治10年11月我が国最初に青森県尻屋埼灯台に取付けられていたものを移設した。同鐘は、城ヶ島灯台博物館に展示後、現在は社団法人灯光会に保存されている。
この間、技術の進展とともに灯台の光源は石油灯〜電灯へ、霧信号も霧鐘〜モーターサイレン〜ダイヤフラムホーンへと変遷をとげ現在に至っております。

葛登支岬灯台、霧信号所の要目
1、葛登支岬灯台 現在地 北海道上磯郡上磯町字茂辺地749番地
位置 北緯41度44分22秒 東経140度36分11秒 塗色 白色 構造 円形 鉄筋コンクリート造 灯質 明暗白光 明6秒 暗4秒
光度 50,000カンデラ 光達距離 18.5海里 高さ 地上から頂部まで15.75メートル 海面上から灯火まで45.90メートル
2、葛登支岬霧信号所 吹鳴周期 毎11秒をへだて、3秒吹鳴、5秒停鳴 3秒吹鳴、5秒停鳴、3秒吹鳴 機械種別 ダイヤフラムホーン2連式


当別の土偶〜その2

『蝦夷島奇観』はいくつもの写本があるらしく、当別の土偶に係るページについてデジタルアーカイブとして公開されているものはあまり多くない。先日の北大データベースと、北海道開拓記念館のサイトのもの(以下)しか発見できなかった。

ただ、『上磯町史 上巻』(p.164)に掲載されている土偶の図版は、北大、開拓記念館、いずれのものとも異なっていて、どこに所蔵されている写本なのかはわからない。市立函館博物館のデジタルアーカイブにて公開されているものかとも考えたが、この土偶のページはサイト上では見つけられなかった。

 

 

■出典 北海道開拓記念館>蝦夷島奇観(近夷地雑図部)(2014年3月26日アクセス)


当別の土偶

江戸幕府の役人であった村上島之丞(秦檍丸)による『蝦夷島奇観』は、約200年前の北海道で営まれていたアイヌの人々の生活や文化を知るうえで貴重な資料となっているが、そのなかに、当別で出土したとされる土偶について記載がある。

上記は北海道大学の北方資料データベースに掲載されている写本のデータだが、寛政10年春、當別村氏神の祠横から掘り出されたとある。顔にある細かな点は入れ墨を表しているものと考察されている。

写実的な頭部や胴体から、おそらく縄文時代後期〜晩期の土偶ではないかと推測されているが、確かに、同時期のものとされる函館市の国宝、中空土偶とも、なんとなく似ているように感ずる。

残念ながらこの土偶、その後どこにいってしまったのか不明らしい。

 

 

■出典 北海道大学北方関係資料総合目録>蝦夷奇観 / 村上嶋之允 (37 / 51 ページ)(2014年3月25日アクセス)


イカル

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散歩中に見かけた黄色い嘴のずんぐりとした鳥。インターネットで検索してみると、どうやら「イカル」という名前の鳥らしい。イカルというのは初めて聞く名前だった。法隆寺の別名斑鳩寺と同じ「イカルガ(斑鳩)」と呼ばれることもあるそうだが、ウィキペディアによれば「斑鳩」の字をあてるのは誤用とのこと。

鳥に目をやれるほど心地よくなってきた。春が近い。


「上磯」の由来について

旧上磯町の「上磯」という名称について、『上磯町史』によればアイヌ語起源説と海岸線の呼び名説との2説に整理されている。

アイヌ語起源説は、「神瀑(※読み方が不明。)」又は「神の岩」を指す「カムイソ」に由来するというもの。

一方で、海岸線の呼び名説としては、函館から東側を下海岸と言うことから、西側は上海岸、つまり「上磯」になった、というものである。

いずれにしても、上磯という名称は、明治11年(1878年)12月7日、有川村と戸切地村との合併に際して函館県令時任為基が命名したものとされている。



大野養蚕場〜その2

現在の大野農業高校正面東側に土塁に関する説明板が設置されている。ちょうど「北海道大野農業高等学校」と書かれた標柱に並んで立っている。

当時あったという表門の姿はよくわからないが、土塁は雪のない時期にその面影を見ることができる。大野文保研のページのかるた絵がわかりやすいので、リンクを下記に張らせていただく。

 

 土塁
明治3年開拓使は、この地に養蚕所を設け桑園を開いた。
ここは、開拓使長官黒田清隆の要請で酒田の士族が開墾にあたったところであり そのとき表門のあった場所で当時ここには大きな「とびら」が設けられこれをはさんで土塁がつくられていた。
この土塁は、山形の鶴岡藩士である榊原十兵衛、水野重敬等65名が、明治8年5月から9月下旬までかかって築造したもの
開拓使時代の桑園跡として名残りをとどめている本道唯一の土塁となっている。
 昭和56年10月24日
  北海道大野農業高等学校同窓会

 

■参考
大野文化財保護研究会>おおの郷土史かるた>


coing(コワン)@北斗市本町

北斗市本町にあるオシャレなパン屋、コワン。リーブスの裏手の少々わかりにくい場所にある、まさに隠れ家的なパン屋。

「コワン」とは「マルメロ」を指すフランス語とか。北斗市にぴったりの名称である。

焼きたてのパンはもちろんだが、ケーキのオーダーも受けているらしいので、今度注文してみたい。

 

■パンとお菓子の店「コワン」 coing
北斗市本町2丁目9-17
営業時間:8:00am~7:00pm
定休日:毎月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
phone:0138-77-6826 fax:0138-77-1620
E-mai:coing@fine.ocn.ne.jp
URL:http://coing.leaves-hakodate.com/


大野養蚕場

拙宅、大野農業高校に隣接しており、同校の周囲には「土塁」や「養蚕」に関わる由緒を記した標識が設置されている。かつてここには開拓使による大野養蚕場が置かれていたらしい。明治19年には德川義禮に無償貸与され、その後払い下げとなっている。養蚕事業自体は収支の関係からか明治45年には行われなくなっていたとのこと。

德川義禮は讃岐高松藩主松平頼聰の次男として文久3年に生まれた人物である。当該地、払い下げを受けた徳川に因み、のちに一般に徳川農場と呼ばれるようになった。


茂辺地と煉瓦〜その3

先日も取り上げた『開拓使事業報告第三編』。国立国会図書館ウェブサイトで公開されており、茂辺地の煉瓦製造に係る箇所を以下のとおり紹介させて頂く。なお、概ね現在の字体で入力したが誤りについてご指摘いただければ幸甚(表の数値については手間を省いてアラビア数字とした。)。やはり開拓使側が「一定の成果」を強調しているような印象を受けるのは誤っているのだろうか。ちなみに『上磯町史 下巻』p.294に記載の『開拓使事業報告第三巻』とは『開拓使事業報告第三編』の誤り。

茂辺地の煉瓦製造所は、事業としては厳しい結果となったものの、そこで製造された煉瓦には「函館製造」の刻印がなされ、道内各地や東京、千島列島にも輸出されていたらしい。

 

『開拓使事業報告第三編』(明治18年11月刊行、大蔵省) pp.824-826

○煉化石及屋瓦
文化中幕府試ニ瓦ヲ製セシム製方未熟ノ為メ厳寒凍裂用フ可ラス遂ニ廃業ス
弘化三丙辰年函館商金子利吉亀田村ニ於テ瓦ヲ製ス尋テ煉化石及屋瓦ヲ製スル者アレトモ擅ニ価格ヲ定ルノミナラス製造亦少ク価自然ニ騰貴シ容易ニ買得スヘカラス屋ヲ葺ク概子木板(俗称柾木羽板木舞等ナリ)ヲ以テス
〔明治五年〕渡島国上磯郡茂辺地村近傍ヨリ煉化石及屋瓦ニ適スル粘土ヲ採リ戸切地村ノ砂ヲ和シ試製セシニ其質鞏固ニシテ実用ニ適ス因テ該村番外地三千五百二坪ヲ劃シ事務所職人部屋工場窯場等拾棟ヲ建築ス
〔七年〕函館豊川町ニ桁行十五間梁間六間ノ煉化石造倉庫四棟ヲ建築ス人其堅牢ナルヲ見テ需用甚多シ
〔八年〕冬季寒威殊ニ厳ク製造ニ従事スル能ハス姑ク中止ス
〔九年〕五月製造ニ著手シ官民ノ需用ニ供スルモ未タ他ニ輸出ノ道ナク且製造経費ヲ以テ価格ヲ算スレハ頗ル高価ニ値ルヲ以テ中止ス
〔十一年〕東京箱崎町本使物産取扱所建築工ヲ起スヲ以テ再製造ニ著手ス○六月更ニ東京ヨリ職工数名ヲ雇ヒ製造シテ東京ニ輸シ建築用ニ供ス工部省審査ニ拠レハ其製最佳トス
〔十四年〕一月茂辺地村森兵五郎工場拝借ヲ請フ乃チ許可ス抑モ此業ヲ興セシ以来未タ純益ヲ見スト雖モ函館港内外現在の官廨ハ皆此製造ニ係リ且市街石室ノ巍然タル瓦屋ノ鱗次スルハ初メ官貲ヲ捐シ価格ノ騰貴ヲ制シ築造ヲ容易ナラシメシニ由ル今其製造表左ノ如シ