北斗市一覧

スズボク

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鈴木牧場牛乳。今春もすでにオープンしており、連日、たくさんのお客さんが来ている。北斗市向野における春〜夏の一大観光名所。特に桜の時期は、法亀寺の桜と合わせ、たくさんの方がおいでになる。


岡山峰吉

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しだれ桜がすっかり有名になってしまった北斗市向野の法亀寺。読み方は「ほうきじ」。境内には、明治期にこの地で活躍した岡山峰吉の功績を称える石碑が残されている。岡山はかつて果樹王と呼ばれ村の人々から敬愛されていたらしい。

岡山峰吉の碑
碑文は「岡山峰吉君は理想に近き実業家なり。君を失いしは大野村の一大損失にして、その誇りとする青年の指導者を失いしなり」の一節から始まる。
明治末期から大正中期にかけて、村民から「果樹王」と呼ばれた岡山峰吉は、明治4年(1871)、茨城県河内郡太田で生まれた。同31年7月、夕張、長沼を経て、単身大野へ移住している。峰吉の果樹園はかつて山田致人(むねと)が果樹園を試みた地で、苗床10町歩、果樹園10町歩を経営し、りんご、なし、桜桃、ぶどうを栽培、年産額1万円の収穫を得るまでに成功したことが碑文に記されている。
その努力と大成功に村民から敬愛されたが、大正9年(1920)3月、数え年50の春に他界した。石碑は同年6月、峰吉の妻・蘭によって向野の道路沿いに建てられ、後に法亀寺に移された。碑文を書いた伊藤松太郎は函館の教会の牧師で、峰吉は熱心なクリスチャンでもあった。
短命で後継者のない、はかない果樹王であったが、法亀寺の墓に刻まれた遺言と思われる「我は復活也生命なり」という句から、世俗を達観した人であった。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会

観音山@北斗市向野

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北斗市向野の観音山。標高144m少々の小さな山。牧場時代、熊による被害が多く、その対策として馬頭観音を祀ったことに由来するらしい。今ではこの辺りまで熊が下りてくるという話は聞いたことがなく、せいぜい木地挽山の辺りの話。住宅地となったこの辺りも、明治の頃までは熊が行き来するような自然の山だったのだなと思うと興味深い。

以下、北斗市の説明板の内容。

観音山

観音山は向野279-1に位置し、標高144.4mの山である。

観音山の名称の由来は、馬頭観音を祭ったことによりはじまると言われており、郷土の馬頭観音の中で一番古いものであると言われている。

光明寺に残る古文書によると、大野・市渡・文月の三村が放牧場として貸付を受けた歴史を古く、文化年間(1804〜18年)頃と解される。

牧場の馬に対しては熊による被害が多く、熊から馬を守るために馬頭観音を祭ったのが観音山の歴史の始まりで、明治以降は、村の人々の和楽の場ともなった親しまれている。この地より大野平野を一望することができ大変風光明媚な場所である。

平成3年5月 大野町教育委員会

2014桜@北斗市向野

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ようやく桜の時期となった。拙宅向かいの桜並木が非常に素晴らしい。大野農業高校の敷地内であり、畑や牛舎との対比が良い。

大野農業高校は隠れた桜の名所。しだれ桜や桜並木は大変美しく、あまり知られていないため景色を独占した気分も味わえる。


大函電鉄

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詳細は北斗市教育委員会のページに譲りますが、いろいろとあって実現しなかった鉄道事業の痕跡とのことです。この事業が実現していたら、などと空想してみるのは何とも面白く、今ののどかな景色とはまったく異なるまちなみを思い描いてしまいます。

■参考
北斗市教育委員会>大函電鉄

 

 


カタクリ@匠の森

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北斗市匠の森公園のカタクリが満開、見頃となっている。短命な花。ご覧になりたい方はお早めに。

先週あたりから、函館市内等々ではカタクリの開花の話が聞こえてきたが、匠の森は標高が高いため、毎年、桜開花の直前あたりに見頃を迎えている。

いよいよ春本番。北海道の短い春。


葛登支岬灯台

葛登支岬灯台に関する古いパンフレットが手に入った。

葛登支岬灯台は明治17年4月8日に着工し、翌18年12月15日に完成している。明治18年は西暦1885年であり、葛登支岬灯台創設百年記念とあることからこのパンフレットが作られたのは1985年頃か。今から約30年前のものということになる。

『上磯町史』によれば、明治4年に弁天岬付近に灯船が配置。明治6年に函館〜青森間の定期航路が開設された。これ以降、函館港を行き交う船舶が増加し、灯船だけでは対応が難しくなったことから、弁天岬と向かい合う葛登支岬に灯台が建設されることになったらしい。

上の写真はパンフレットに挿入されていたものだが、『上磯町史』にも同じ写真が掲載されており、そのキャプションでは「葛登支岬航路標識事務所(昭和初期)」と記載されている。

航路標識事務所制が発足し、葛登支岬航路標識事務所となったのは昭和28年8月、これが廃止されたのは昭和61年4月。以降、職員常駐はなくなった。

 

葛登支岬灯台百年のあゆみ(葛登支岬灯台創設百年記念協賛会)

“津軽海峡のみちしるべ”
葛登支岬灯台は、明治17年4月8日建設に着手、翌明治18年12月15日完成し、以来今日まで津軽海峡の安全を祈りながら100年点灯を続けております。
北海道では、根室市の「納沙布岬灯台」小樽市の「日和山灯台」稚内市の「宗谷岬灯台」に次いで四番目に古く、道南では最初の灯台です。
本灯台で使用しているレンズは、大型第三等レンズというフランス・バビエ・フェネスタ社製のもので初点灯以来今日まで航海者にやさしい光を与えてきました。
また、明治25年4月には、霧、吹雪等の視程障害に対処するため霧信号所として霧鐘を設置し、昭和24年8月モーターサイレンに改造されるまで57年の長い間航行船に親しまれ航海の安全に寄与してきました。
※この霧鐘は、明治10年11月我が国最初に青森県尻屋埼灯台に取付けられていたものを移設した。同鐘は、城ヶ島灯台博物館に展示後、現在は社団法人灯光会に保存されている。
この間、技術の進展とともに灯台の光源は石油灯〜電灯へ、霧信号も霧鐘〜モーターサイレン〜ダイヤフラムホーンへと変遷をとげ現在に至っております。

葛登支岬灯台、霧信号所の要目
1、葛登支岬灯台 現在地 北海道上磯郡上磯町字茂辺地749番地
位置 北緯41度44分22秒 東経140度36分11秒 塗色 白色 構造 円形 鉄筋コンクリート造 灯質 明暗白光 明6秒 暗4秒
光度 50,000カンデラ 光達距離 18.5海里 高さ 地上から頂部まで15.75メートル 海面上から灯火まで45.90メートル
2、葛登支岬霧信号所 吹鳴周期 毎11秒をへだて、3秒吹鳴、5秒停鳴 3秒吹鳴、5秒停鳴、3秒吹鳴 機械種別 ダイヤフラムホーン2連式


当別の土偶〜その2

『蝦夷島奇観』はいくつもの写本があるらしく、当別の土偶に係るページについてデジタルアーカイブとして公開されているものはあまり多くない。先日の北大データベースと、北海道開拓記念館のサイトのもの(以下)しか発見できなかった。

ただ、『上磯町史 上巻』(p.164)に掲載されている土偶の図版は、北大、開拓記念館、いずれのものとも異なっていて、どこに所蔵されている写本なのかはわからない。市立函館博物館のデジタルアーカイブにて公開されているものかとも考えたが、この土偶のページはサイト上では見つけられなかった。

 

 

■出典 北海道開拓記念館>蝦夷島奇観(近夷地雑図部)(2014年3月26日アクセス)


当別の土偶

江戸幕府の役人であった村上島之丞(秦檍丸)による『蝦夷島奇観』は、約200年前の北海道で営まれていたアイヌの人々の生活や文化を知るうえで貴重な資料となっているが、そのなかに、当別で出土したとされる土偶について記載がある。

上記は北海道大学の北方資料データベースに掲載されている写本のデータだが、寛政10年春、當別村氏神の祠横から掘り出されたとある。顔にある細かな点は入れ墨を表しているものと考察されている。

写実的な頭部や胴体から、おそらく縄文時代後期〜晩期の土偶ではないかと推測されているが、確かに、同時期のものとされる函館市の国宝、中空土偶とも、なんとなく似ているように感ずる。

残念ながらこの土偶、その後どこにいってしまったのか不明らしい。

 

 

■出典 北海道大学北方関係資料総合目録>蝦夷奇観 / 村上嶋之允 (37 / 51 ページ)(2014年3月25日アクセス)


イカル

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散歩中に見かけた黄色い嘴のずんぐりとした鳥。インターネットで検索してみると、どうやら「イカル」という名前の鳥らしい。イカルというのは初めて聞く名前だった。法隆寺の別名斑鳩寺と同じ「イカルガ(斑鳩)」と呼ばれることもあるそうだが、ウィキペディアによれば「斑鳩」の字をあてるのは誤用とのこと。

鳥に目をやれるほど心地よくなってきた。春が近い。


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