北斗市一覧

「上磯」の由来について

旧上磯町の「上磯」という名称について、『上磯町史』によればアイヌ語起源説と海岸線の呼び名説との2説に整理されている。

アイヌ語起源説は、「神瀑(※読み方が不明。)」又は「神の岩」を指す「カムイソ」に由来するというもの。

一方で、海岸線の呼び名説としては、函館から東側を下海岸と言うことから、西側は上海岸、つまり「上磯」になった、というものである。

いずれにしても、上磯という名称は、明治11年(1878年)12月7日、有川村と戸切地村との合併に際して函館県令時任為基が命名したものとされている。



大野養蚕場〜その2

現在の大野農業高校正面東側に土塁に関する説明板が設置されている。ちょうど「北海道大野農業高等学校」と書かれた標柱に並んで立っている。

当時あったという表門の姿はよくわからないが、土塁は雪のない時期にその面影を見ることができる。大野文保研のページのかるた絵がわかりやすいので、リンクを下記に張らせていただく。

 

 土塁
明治3年開拓使は、この地に養蚕所を設け桑園を開いた。
ここは、開拓使長官黒田清隆の要請で酒田の士族が開墾にあたったところであり そのとき表門のあった場所で当時ここには大きな「とびら」が設けられこれをはさんで土塁がつくられていた。
この土塁は、山形の鶴岡藩士である榊原十兵衛、水野重敬等65名が、明治8年5月から9月下旬までかかって築造したもの
開拓使時代の桑園跡として名残りをとどめている本道唯一の土塁となっている。
 昭和56年10月24日
  北海道大野農業高等学校同窓会

 

■参考
大野文化財保護研究会>おおの郷土史かるた>


coing(コワン)@北斗市本町

北斗市本町にあるオシャレなパン屋、コワン。リーブスの裏手の少々わかりにくい場所にある、まさに隠れ家的なパン屋。

「コワン」とは「マルメロ」を指すフランス語とか。北斗市にぴったりの名称である。

焼きたてのパンはもちろんだが、ケーキのオーダーも受けているらしいので、今度注文してみたい。

 

■パンとお菓子の店「コワン」 coing
北斗市本町2丁目9-17
営業時間:8:00am~7:00pm
定休日:毎月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
phone:0138-77-6826 fax:0138-77-1620
E-mai:coing@fine.ocn.ne.jp
URL:http://coing.leaves-hakodate.com/


大野養蚕場

拙宅、大野農業高校に隣接しており、同校の周囲には「土塁」や「養蚕」に関わる由緒を記した標識が設置されている。かつてここには開拓使による大野養蚕場が置かれていたらしい。明治19年には德川義禮に無償貸与され、その後払い下げとなっている。養蚕事業自体は収支の関係からか明治45年には行われなくなっていたとのこと。

德川義禮は讃岐高松藩主松平頼聰の次男として文久3年に生まれた人物である。当該地、払い下げを受けた徳川に因み、のちに一般に徳川農場と呼ばれるようになった。


茂辺地と煉瓦〜その3

先日も取り上げた『開拓使事業報告第三編』。国立国会図書館ウェブサイトで公開されており、茂辺地の煉瓦製造に係る箇所を以下のとおり紹介させて頂く。なお、概ね現在の字体で入力したが誤りについてご指摘いただければ幸甚(表の数値については手間を省いてアラビア数字とした。)。やはり開拓使側が「一定の成果」を強調しているような印象を受けるのは誤っているのだろうか。ちなみに『上磯町史 下巻』p.294に記載の『開拓使事業報告第三巻』とは『開拓使事業報告第三編』の誤り。

茂辺地の煉瓦製造所は、事業としては厳しい結果となったものの、そこで製造された煉瓦には「函館製造」の刻印がなされ、道内各地や東京、千島列島にも輸出されていたらしい。

 

『開拓使事業報告第三編』(明治18年11月刊行、大蔵省) pp.824-826

○煉化石及屋瓦
文化中幕府試ニ瓦ヲ製セシム製方未熟ノ為メ厳寒凍裂用フ可ラス遂ニ廃業ス
弘化三丙辰年函館商金子利吉亀田村ニ於テ瓦ヲ製ス尋テ煉化石及屋瓦ヲ製スル者アレトモ擅ニ価格ヲ定ルノミナラス製造亦少ク価自然ニ騰貴シ容易ニ買得スヘカラス屋ヲ葺ク概子木板(俗称柾木羽板木舞等ナリ)ヲ以テス
〔明治五年〕渡島国上磯郡茂辺地村近傍ヨリ煉化石及屋瓦ニ適スル粘土ヲ採リ戸切地村ノ砂ヲ和シ試製セシニ其質鞏固ニシテ実用ニ適ス因テ該村番外地三千五百二坪ヲ劃シ事務所職人部屋工場窯場等拾棟ヲ建築ス
〔七年〕函館豊川町ニ桁行十五間梁間六間ノ煉化石造倉庫四棟ヲ建築ス人其堅牢ナルヲ見テ需用甚多シ
〔八年〕冬季寒威殊ニ厳ク製造ニ従事スル能ハス姑ク中止ス
〔九年〕五月製造ニ著手シ官民ノ需用ニ供スルモ未タ他ニ輸出ノ道ナク且製造経費ヲ以テ価格ヲ算スレハ頗ル高価ニ値ルヲ以テ中止ス
〔十一年〕東京箱崎町本使物産取扱所建築工ヲ起スヲ以テ再製造ニ著手ス○六月更ニ東京ヨリ職工数名ヲ雇ヒ製造シテ東京ニ輸シ建築用ニ供ス工部省審査ニ拠レハ其製最佳トス
〔十四年〕一月茂辺地村森兵五郎工場拝借ヲ請フ乃チ許可ス抑モ此業ヲ興セシ以来未タ純益ヲ見スト雖モ函館港内外現在の官廨ハ皆此製造ニ係リ且市街石室ノ巍然タル瓦屋ノ鱗次スルハ初メ官貲ヲ捐シ価格ノ騰貴ヲ制シ築造ヲ容易ナラシメシニ由ル今其製造表左ノ如シ


茂辺地と煉瓦〜その2

国立国会図書館デジタルコレクションにて明治18年11月刊行の『開拓使事業報告 第3編』(大蔵省)が公開されていた。このサイトは大変便利。

当該報告書のp.824から「○煉化石及屋瓦」について整理されている。文化年間、幕府も瓦製造を試みたものの製法未熟により北海道の厳しい冬に耐えうるようなものを作ることがかなわなかった。一方、弘化年間以降、瓦製造を行う者が出てきたが、製造量が少なく価格が高騰。容易に購入できるような状況ではなかったらしい。

明治5年の項に茂辺地村について記載。茂辺地において煉化石、屋根瓦に適した粘土が採取されたこと及び試験製造したものが実用に足ると判断されたことから、茂辺地番外地3,502坪を割いて事務所、職人部屋、工場、窯場等、10棟を建築した、とある。


茂辺地と煉瓦

北斗市茂辺地に、かつて開拓使による茂辺地煉瓦(化)石製造所があったことは以前にも紹介したところ。

茂辺地は、この製造所が作られる前から、良い煉瓦土の採れる場所として知られていたらしい。開拓使による製造所建設に当たっては、榎本武揚らによる調査結果も影響があったものと推測されるほか、当該調査の際には、この茂辺地の粘土や煉瓦土の情報は榎本の知るところだったはず。

実際に茂辺地において、文久元年(1861年)から2年間に、3万枚の煉瓦が作られていたそうだ。

明治5年に、開拓使による茂辺地煉瓦(化)石製造所が建設される。これは明治9年に生産中止となるが、この間製造された煉瓦の品質が悪かったことに加え、主な需要地である札幌までの輸送コストの問題が大きかったようである。

明治11年に生産が再開され、この頃(再開後)に製造された煉瓦が使用されている建物が、函館市内に現存する旧開拓使函館支庁書庫及び市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)である。

設立当初の煉瓦品質が悪く、再開後の品質がなかなかのものだったらしいことに鑑みると、やはり製造に係る技術者の能力が大きく影響を与えていたのだろうと推測される。


薬食同源 拉麺 サミャン@北斗市東浜

拉麺普通盛は1.5玉というナイスなボリューム。大盛りは2.2玉らしい。巨漢の小生でも普通盛りで十分な量と感じられたため、女性の方は1玉でオーダーした方が無難な印象。
 
この日は醤油ラーメンをいただいた。あっさり系の昔ながらのスープと、コシの強い卵麺。美味。次回は炒飯の大盛りに挑戦してみたい。

 

■薬食同源 拉麺 サミャン
場所:北斗市東浜2丁目17番


郵便差出箱1号@北斗市七重浜

いまだ現役で活躍中の丸型ポスト。正しくは「郵便差出箱1号」だろうか。1970年に角型ポストが登場したことにより丸型の生産及び設置が終了したらしいので、少なくとも44年は使われている計算になる。なんとも小生よりも10年も先輩であったらしい。深夜に無断でカメラを向けた非礼、この場をお借りしてお詫び申し上げたい。

なお、設置場所は七重浜駅前の大魔王横である。

 

参考:Wikipedia>「丸型ポスト」(2014.2.1 アクセス)


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