北斗市一覧

北斗市文月の小高神社と道祖神

北斗市文月の農地にたたずむ小高神社と道祖神。

 

小高神社と道祖神

2007年5月3日撮影。

 

小高神社と道祖神

2007年5月3日撮影。北斗市教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

 

小高神社と道祖神

戦後、樺太引揚者の人々は、かつて文月の「舟上(ふなあげ)」と称した開拓地に入植したが、苦労の末に手に入れた馬が相次いで熊の被害に遭った。

そのため昔から馬の産地として知られていた福島県相馬地方の小高神社にあやかって、昭和25年(1950)、馬を守ってもらおうと建てたのが文月の小高神社であり、馬頭観音が祭神となっている。

昭和44年、この付近から掘り起こされた三柱の道祖神が境内に安置された。表面には模様とも文字ともつかないものが刻まれ、何を意味するのかは不明である。かつては祠の中にまつられていたが、風雪のため姿を消し、山上から運ばれてきた土砂に埋没したと伝えられる。

道祖神は旅の安全祈願の神で、村境や峠の上に建て悪霊をさえぎるものとされた。後に男女交歓の場ともなったことから、縁結びの神、子授けの神として崇拝されている。

この辺りは松前藩の鷹場だった姉弟山へ通ずる所で、松前藩主も鷹狩りによく通った道であったため、この地に道祖神がまつられたとも考えられている。

平成18年3月吉日

北斗市教育委員会


史跡松前藩戸切地陣屋跡(2007年)

北斗市の松前藩戸切地陣屋跡。写真等は2007年訪問時のもの。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。清川寺の前からアクセス。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。陣屋入り口。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。説明板に記載されている史跡の全体図。クレジットは文科省と?

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。説明板に記載されている内容は以下のとおり。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

この陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。

構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており6つの砲座があります。

郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払っています。

この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、昭和40年3月18日、国の史跡に指定されました。

 

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。史跡内部に建てられていた碑。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。史跡内部の概観。

 

 


意富比神社

旧大野町の中心にある意富比神社。現在の北斗市総合分庁舎の向かい側。

幕末の動乱においても激戦の地となった。

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。この巨木も由緒あるもの。北海道設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

意富比神社環境緑地保護地区

この地区は、イチイ・スギ・カツラ等の大径木からなる面積約0.5ヘクタールの境内林です。

地区内には、大野町開拓の歴史を物語る推定樹齢360余年のイチイがあり、昭和47年3月に道条例に基づく記念保護樹木に指定されている等、市街地周辺の環境緑地として維持することが必要な樹林地として、住民に親しまれています。

昭和63年5月26日指定

北海道

 

意富比神社の水松記念保護樹木

大野町には、江戸時代初期の頃から人々が住みはじめ、寛文9年(1669)の頃、既に家が20軒ほどあったとされています。

このイチイはその頃植えられたもので、大野町の350年の歴史を物語る古木として指定されました。

昭和47年3月25日指定

北海道

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。北斗市設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

箱館戦争と意富比神社の戦い

明治元年(1868)旧10月20日旧幕府軍は、森町(鷲ノ木)に上陸し、本隊は箱館(現函館)に向かい、分隊は峠下コースを進軍し、10月24日午前7時頃、風雪の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のため向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊を阻もうとする官軍藩兵とが市渡で遭遇戦になり意富比神社境内を中心に戦闘になり白兵戦になりました。

しかし、作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃し、約1時間の戦いであった。この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたってもえあがり、強い北風にあおられて十数件が焼失しました。

村民は銃声や火災に逃げまどった。両軍の死傷者はかなりの数であっただろう。官軍の墓だけでも10以上になっている。

なお、意富比神社のイチイの木にも弾痕がある。

平成4年10月

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。この忠魂碑に係る説明板の内容は以下のとおり。

 

意富比神社の忠魂碑

日露戦争後、各地に戦死者の慰霊碑が建てられた。郷土でも明治44年(1911)11月、在郷軍人会が村民有志の協力を得て、向野の観音山に忠魂碑を建立した。

観音山は、それ以前から馬頭観音祭に併せて消防組が花相撲を行うなど、村民集いの場であったが、忠魂碑が建ってからは慰霊祭も行われ、さらに賑わいが増したという。

忠魂碑は昭和42年(1967)、遺族会が参拝しやすい場所に移そうと会員から資金を集め、観音山から意富比神社境内へ移設された。基礎の台は新設され、日露戦争に太平洋戦争までの戦没者を加え、あらためて字別に224名の戦没者の姓名碑を両側に並立した。

太平洋戦争では、特に中国、南方方面ではおびただしい数の人が犠牲となり、激しい沖縄での戦いや函館湾の連絡船空襲などで、郷土からも多くの戦死者を出した。

碑前で行われる慰霊祭は、かつて「忠魂祭」や「戦没者慰霊祭」と呼ばれていたが、現在は「平和祈念祭」と名を変え、遺族会が主催して毎年6月20日、戦死者の冥福を祈るとともに、平和を願ってしめやかに行われている。

平成18年3月吉日

北斗市教育委員会

 


文月の庚申塚

 

文月の庚申塚

2007年3月11日撮影。説明板の内容は以下のとおり。

 

文月の庚申塚

文化9年(1812)建立。碑面には、文字が摩滅しかけているが頭取13人の名前が刻まれており、これが文月の人名を記した最古のものであり、大野では本郷の庚申塚に次いで2番目に古いものとされている。

ここは昔、文月の村のはずれにあったことがうかがわれ、かたわらの巨木と塚は、文化以降の古さをきそうものであり、ここに祭られていた猿田彦神社が明治11年に移っているので、塚、基礎ともに建て直したものらしい。頭取格に名のある高田吉右衛門については、貞享2年説(1685)の米作りをしたという吉右衛門の子孫であるとされている。

平成5年9月

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

 


千代田巡査駐在所跡

千代田稲荷神社の境内に駐在所が置かれていたとのこと。

 

千代田駐在所跡

2007年3月11日撮影。説明板は神社の隣、消防団の建物の脇に設置されている。

 

千代田駐在所跡

2007年3月11日撮影。旧大野町教育委員会設置の説明板。内容は以下のとおり。

 

千代田巡査駐在所跡

千代田巡査駐在所は、明治37年(1904)5月10日、千代田村有志の寄付により、千代田稲荷神社の境内に設置された。記録によると「初代の駐在巡査は石原貞助なり」とある。

設置当初は七飯警察署の所属であったが、明治40年、同署の廃止によって大野警察分署の所管となり、昭和23年(1948)には警察機構改革で函館地区警察署所属となった。

担当区域は大野村字千代田、一本木、萩野、東前、清水川、南大野、文月、上磯村字追分、七飯村字豊田の三村にわたり、明治から昭和にいたる50数年間、北海道警察の発足で、昭和30年代に大野警察官派出所に統合、廃止されるまで、地域住民の安全確保と函館や道央各地を結ぶ人馬の往来、物流などに大きな役割を果たした。

昭和に入ると、住民の駐在所に寄せる期待と信頼は大きくなり、負担も大きくなった。戦後は駐在所と地域住民との結びつきはさらに深まり、地域の行事や婚礼などにはよく駐在さんの姿を見かけたものである。

平成16年11月吉日

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

 


千代田の忠魂碑と庚申塚

北斗市千代田。地名の由来と忠魂碑、庚申塚。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。忠魂碑。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。庚申塚。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。説明板の内容は以下のとおり。

 

千代田

千代田の開村は「大野村史」や「蝦夷実地検考録」にある千代田稲荷神社勧請の記録から、寛政年間(1789〜1800)と推定され、藤田家の記事にも「先祖藤田八五郎は、陸奥国軽米郡軽米村に生る。寛政元年本道へ渡り、本村に居住をぼくす」とある。

文化2年(1805)、大野平野一帯で幕府直轄による大開田が行われると、千代田でも文化元年に渡来した島津才兵衛が、同3年に南部八戸より農家12戸を募集して開墾している。また、文化2年には松前の富商・伊達林右衛門も同地で新田を耕し「伊達村ト唱フ后之ヲ千代田村ト改称ス」と「伊達家文書」にあるが、正確な場所はわかっていない。

千代田の言い伝えに鶴の飛来が多かったので、鶴田と称したとあるが、「蝦夷実地検考録」の記述から、江戸の千代田村にあやかって後の繁栄を願い、千代田と称するようになったと推定できる。寛政12年(1800)に幕府が米の試作を行った際に千代田という地名を使用しており、同年、蝦夷地を実測した伊能忠敬の地図にも千代田と記されている。

はじめ千代田郷と呼ばれ、明治6年(1873)に千代田村となった。同13年、大野ほか5か村の戸長役場が大野村に設置され、同33年に大野村に統一。全道から大野村ほか15か町村が1級町村に選ばれ、千代田村は「大野村大字千代田」となる。道道大野上磯線の旧道を堺に、西側を西川原、東側を東前谷地と呼び、ほかにも西川原通、川向ドドメキ、東前谷地通の5つの字があったが、昭和7年(1932)の字改正で千代田、東前の2字となった。昭和32年に大野は町制を施行し、平成18年(2006)2月1日、上磯町との合併によって北斗市となる。

 

平成17年5月末現在 千代田町内会

世帯数 120世帯  男 175人  女 221人  合計 396人

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

千代田と一本木の堺にあたるこの地に「忠魂碑」「庚申塔」と刻まれた2つの石碑がある。

忠魂碑には「明治44年(1911)3月10日建立 日露戦役戦死者 奉天旅順戦没 陸軍特務曹長 勲七等功七級 藤田弥三郎 建立 千代田在郷軍人」と刻まれている。

明治27年(1894)の日清戦争の戦死者は1万7千人を数え、同37〜38年の日露戦争でも日本は旅順攻撃、奉天会戦、日本海海戦などで勝利を収めたが、戦死者は11万8千人に上り、特に奉天、旅順での戦いは熾烈を極めた。

日露戦争後、時の西園寺内閣は、全国民の意識鼓舞と団結融和、戦死者の鎮魂を目的に、全国市町村に忠魂碑の建立を指示、千代田の忠魂碑もその時に建てられたものである。建立以来、8月25日の千代田稲荷神社祭典で、神事の前に碑前で祈年祭が行われている。

庚申塚は本郷、市渡、文月、千代田にあり、本郷が寛政8年(1796)建立で一番古く、2番目は文月の文化9年(1812)、千代田は嘉永3年(1850)である。

庚申は干支の60日または60年ごとに巡ってくる「庚申」のことで、信仰は中国の道教に始まったといわれる。人間には3つの悪い癖があり、これを3匹の虫にたとえ、この癖を改めさせるため「更新」とかけて庚申の日を謹慎日とした。三虫は体の中に住み、庚申の夜、寝ている間に抜け出して天帝(帝釈天)に罪を告げ、命を短くされるので、庚申の夜は虫が出ないように眠らずに慎んだという。奈良時代に日本に伝わり、室町以降、通行の安全や五穀豊穣、悪病退散など、ご利益や庶民の願いに変わると、江戸時代には村はずれや辻に塔を建てることが盛んになった。神道では申と猿を結びつけて猿田彦をまつる。

この場所は奥地(道央)へ往来する役人や探検家も通過した道で、道中の安全と村に災いが入らないことを祈願したものと考えられる。碑面には「庚申塔 嘉永三年八月、名主 島津才兵衛、大和屋○○、吉田弥四郎、藤田八五郎、安藤重吉、金濱丹治」とあり、名主以下の三役と千代田の重立人の名が彫られている。町人、百姓に苗字が許されなかった時代に、はっきりと姓名をつけているというのも見事な心意気といえる。

基礎は昭和30年(1955)に修理されたが、碑石は嘉永3年のままで、平成16年(2004)8月千代田の人たちは忠魂碑の基礎改修にあわせて、庚申塚の基礎も補修した。


一本木稲荷神社

北斗市一本木の稲荷神社。

由緒を記した説明板の内容は以下のとおり。

 

一本木稲荷神社

一本木稲荷神社は、「蝦夷実地検考録」によれば、八郎大明神稲荷神社が合祀されている。

八郎大明神の祭神大巳貴命(おうなむちのみこと)は、おおくにぬしのみことの別名であり、国土経営の神様である。少彦名命(すくなひこなのみこと)は、国土経営の任にあたり医療まじないの法をはじめた神ということになっている。稲荷社の祭神保食命と倉稲魂命についてはどちらも穀物をつかさどる神で、開拓を進める一本木村にふさわしい神々である。一本木の神社は、稲荷神社だけでなく、八郎大明神というものもあったので、検考録には2つ並べて書かれてある。2つということはもともと2つのおやしろが別々にあったのか、1つのおやしろに八郎大明神と稲荷社があったか、いずれにしても寛政中勧請とあることからみて、はじめから社を2つわけて建てたとは思われず、1つの社に合祀したものと考えられる。

また、平成6年8月に以前の鳥居か老朽化したうえ、神社前の道々大野上磯線の改良工事に鳥居の一部がかかったため、氏子らの寄付で建てられた。

平成7年12月

大野町教育委員会

 

一本木稲荷神社

2007年3月11日撮影。

 

一本木稲荷神社

2007年3月11日撮影。

 

手前には地域に貢献した下山家を称える一本木町内会設置の説明板も設置されていた。

内容は以下のとおり。

 

地域に根ざした人々と下山家

ここ一本木という地名の起こりは、一本のアカダモの大木から名付けられたものである。

一本気はかつて、松前藩時代から蝦夷地の陸路の交通の要所として栄えて来た地域でもあった。また、政治・経済・文化にも大きく関わってきたその街道が、かつて往年に当地の村の形成に大きく関わった有志下山貞吉外19人衆が力を合わせ今日の開墾及び開拓の礎となった。

下山家の初代孫四郎は文久年間青森県大巻村から一本木へ移住し、一本木の村用係をしていた。村用係は開拓時代の村々の重責を担っている地位であり、孫四郎は当村には重要な中心的人物だった。下山家は彼を初め代々地域の発展のために村の村会議員等要職を歴任し、活躍した家柄でもあった。

また、一本木地域は古くから米作りが盛んな所でもあり、早くから久根別川あるいは大沼の導水をいち早く着手した地域でもあった。

平成時代に入りこの道も交通量が著しく多くなり、古い道幅を拡張せざるを得なくなった。そこで下山家には道々756号大野上磯線の拡張工事を行った際、事業の推進に多大なる貢献をしていただき今日の道路の完成をみた。

また、地域町内会の人々はもちろんのこと各関係機関のご協力とご指導ご支援のもとに完成した。ここに多くの方々に深く感謝して、この偉業を永く後世に伝えていきたいと思います。

平成12年2月吉日

大野町一本木町内会

 


八郎沼公園(2004年)

2004年10月に訪問した八郎沼公園。まだ合併して北斗市になる前の旧大野町時代。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

当時設置されていた説明板。旧大野町教育委員会の設置。現在もあるかどうかは不明。

 

八郎沼公園の由来

八郎沼のおこりは、明治13年の頃山田致人(現愛媛県生れ)が、隣接向野の観音山附近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯わえたものであったが、その後中村長八郎が、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築したものが今日の沼の原形となり地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。又、公園は昭和50年から大野町が構想を樹て総合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が高まっている。

大野町教育委員会

大野町観光協会

 

 


葛登支の三木露風歌碑

平成15年(2003年)に建立された三木露風歌碑。葛登支稲荷の手前にある。

 

葛登支三木露風歌碑

2003年7月13日撮影。

 

葛登支三木露風歌碑

2003年7月13日撮影。碑の内容は以下のとおり。

 

はるかなる 岬の上に 立ちにける

白き燈台 日に輝けり

三木露風トラピスト歌集より

平成15年7月吉日

葛登支稲荷奉賛会 加藤 哲恵

上磯地方史研究会 有志一同

謹書 上磯町教育長 田中 則夫

故 工藤忠孝氏の遺志により建立

 



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