北斗市一覧

一本木稲荷神社

北斗市一本木の稲荷神社。

由緒を記した説明板の内容は以下のとおり。

 

一本木稲荷神社

一本木稲荷神社は、「蝦夷実地検考録」によれば、八郎大明神稲荷神社が合祀されている。

八郎大明神の祭神大巳貴命(おうなむちのみこと)は、おおくにぬしのみことの別名であり、国土経営の神様である。少彦名命(すくなひこなのみこと)は、国土経営の任にあたり医療まじないの法をはじめた神ということになっている。稲荷社の祭神保食命と倉稲魂命についてはどちらも穀物をつかさどる神で、開拓を進める一本木村にふさわしい神々である。一本木の神社は、稲荷神社だけでなく、八郎大明神というものもあったので、検考録には2つ並べて書かれてある。2つということはもともと2つのおやしろが別々にあったのか、1つのおやしろに八郎大明神と稲荷社があったか、いずれにしても寛政中勧請とあることからみて、はじめから社を2つわけて建てたとは思われず、1つの社に合祀したものと考えられる。

また、平成6年8月に以前の鳥居か老朽化したうえ、神社前の道々大野上磯線の改良工事に鳥居の一部がかかったため、氏子らの寄付で建てられた。

平成7年12月

大野町教育委員会

 

一本木稲荷神社

2007年3月11日撮影。

 

一本木稲荷神社

2007年3月11日撮影。

 

手前には地域に貢献した下山家を称える一本木町内会設置の説明板も設置されていた。

内容は以下のとおり。

 

地域に根ざした人々と下山家

ここ一本木という地名の起こりは、一本のアカダモの大木から名付けられたものである。

一本気はかつて、松前藩時代から蝦夷地の陸路の交通の要所として栄えて来た地域でもあった。また、政治・経済・文化にも大きく関わってきたその街道が、かつて往年に当地の村の形成に大きく関わった有志下山貞吉外19人衆が力を合わせ今日の開墾及び開拓の礎となった。

下山家の初代孫四郎は文久年間青森県大巻村から一本木へ移住し、一本木の村用係をしていた。村用係は開拓時代の村々の重責を担っている地位であり、孫四郎は当村には重要な中心的人物だった。下山家は彼を初め代々地域の発展のために村の村会議員等要職を歴任し、活躍した家柄でもあった。

また、一本木地域は古くから米作りが盛んな所でもあり、早くから久根別川あるいは大沼の導水をいち早く着手した地域でもあった。

平成時代に入りこの道も交通量が著しく多くなり、古い道幅を拡張せざるを得なくなった。そこで下山家には道々756号大野上磯線の拡張工事を行った際、事業の推進に多大なる貢献をしていただき今日の道路の完成をみた。

また、地域町内会の人々はもちろんのこと各関係機関のご協力とご指導ご支援のもとに完成した。ここに多くの方々に深く感謝して、この偉業を永く後世に伝えていきたいと思います。

平成12年2月吉日

大野町一本木町内会

 


八郎沼公園(2004年)

2004年10月に訪問した八郎沼公園。まだ合併して北斗市になる前の旧大野町時代。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

八郎沼公園

2004年10月15日撮影。

 

当時設置されていた説明板。旧大野町教育委員会の設置。現在もあるかどうかは不明。

 

八郎沼公園の由来

八郎沼のおこりは、明治13年の頃山田致人(現愛媛県生れ)が、隣接向野の観音山附近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯わえたものであったが、その後中村長八郎が、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築したものが今日の沼の原形となり地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。又、公園は昭和50年から大野町が構想を樹て総合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が高まっている。

大野町教育委員会

大野町観光協会

 

 


葛登支の三木露風歌碑

平成15年(2003年)に建立された三木露風歌碑。葛登支稲荷の手前にある。

 

葛登支三木露風歌碑

2003年7月13日撮影。

 

葛登支三木露風歌碑

2003年7月13日撮影。碑の内容は以下のとおり。

 

はるかなる 岬の上に 立ちにける

白き燈台 日に輝けり

三木露風トラピスト歌集より

平成15年7月吉日

葛登支稲荷奉賛会 加藤 哲恵

上磯地方史研究会 有志一同

謹書 上磯町教育長 田中 則夫

故 工藤忠孝氏の遺志により建立

 



CEMENT

『CEMENT』吉村和敏,ノストロ・ボスコ,2010年。

12月12日に発売された太平洋セメント上磯工場の写真集を購入。セメント工場の力強さを感じることが出来る一冊。1つの工場だけで一冊の写真集となるのは、とても珍しいことらしい。

最近、工場に興味を抱く人が増えているらしい。アニメ、鉄道、歴史、次は工場のようだ。実は私もその一人。工場で稼働する機械、重機、パイプライン等は、見ていて飽きない。

 

セメント工場は、北斗市民には見慣れた工場で、見慣れすぎているため、あまり特別な思いをもつことも少ないだろうが、写真となった工場の姿は、きっと普段とは違って見えるはず。

 

CEMENT



有川大神宮

北斗市役所のすぐ隣にある有川大神宮。由緒については諸説あるようだ。

保存樹林ということで、境内の木々も相当な古さを感じさせる大木が多い。

 

有川大神宮

2010年1月4日撮影。

 

有川大神宮

2010年1月4日撮影。

 

北斗市設置の保存樹林に係る説明板の内容は次のとおり。

 

保存樹林

樹種 スギ・クロマツ・アカマツ・イチイ他 樹齢推定100年から350年以上

指定理由 有川大神宮は、応永2年(1395年)に九州秋月藩士の種田一族が蝦夷に渡り、この有川に居を構え神宮祠を祀ったのがはじまりで、慶長2年(1597年)伊勢神宮のご分霊を奉戴し神社として創建されたものです。境内の樹木の中には推定樹齢350年以上の大イチョウの木が健全としてあるなど樹木の集団として、貴重なものである。

指定番号 第1号

指定年月日 昭和62年3月31日

所有者または管理者 有川大神宮 宮司 種田一郎

北斗市


きじひき高原

北斗市の隠れ観光スポット「きじひき高原」。

天気の良い日には、駒ヶ岳、大沼、函館山が一望できる。さらには羊蹄山が見えることも。

 

きじひきから見る駒ヶ岳と大沼

2009年9月27日撮影。駒ヶ岳と大沼を一望す。

 

公共育成牧場サイロ跡

2009年9月27日撮影。旧大野町公共育成牧場サイロ跡。

 

きじひきの牛

2009年9月27日撮影。きじひき高原で預かっている牛。道路の近くまで来ていることもある。間近で見ると結構こわい。

 

きじひきから見える函館山

2009年9月27日撮影。きじひき高原から見える函館山。


北海道水田発祥の地碑

北海道の水田発祥について、発祥の地碑があるのは現在の北斗市である。

1番がどこかというのはどうでもよくて、北海道における米作りの先駆的な場所だったということが重要であると個人的には思っている。

現在では北海道米を代表する「ふっくりんこ」。これに繋がる道南における米作りの歴史。ここが面白いところ。

 

北海道水田発祥の地碑

2009年8月2日撮影。

 

北斗市教育委員会設置の説明板の内容は次のとおり。

 

 

北海道水田発祥の地碑
蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661〜72)貞享2年(1685)、元禄5年(1692)の記録がある。水田発祥の地碑は、元禄5年の「松前志」の記録と村民の伝承によって昭和24年(1949)に建てられた。
碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄5年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、450坪(約15アール)を開田し、道米10俵(現在の2俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
作右衛門の水田は2、3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2年(1805)には箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
嘉永3年(1850)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元年(1954)以降、米作りはようやく安定した。明治6年(1873)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったのである。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会