北斗市一覧

北斗市本町の光明寺

北斗市本町の光明寺(こうみょうじ)は、明和4年(1767年)に建立された光明庵に由来する寺院であり、函館市船見町の高龍寺を本寺とする。

墓地には箱館戦争時の新政府軍であった備後福山藩、越前大野藩、松前藩戦死者の墓のほか、旧幕府軍の永井蠖伸斎、網代清四郎の墓もある。永井蠖伸斎、網代清四郎両名とも明治2年(1869年)4月29日に、永井は矢不来の戦いにて、網代は有川において戦死している。

『北海道寺院沿革誌』(明治27年 星野和太郎編)には光明庵「明和四年八月」建立として記載がある。ただし、開基については「唱道和尚 高龍寺三世住職」と記載されており、年代からしても正しくは高龍寺七世住職の整天喝道であると考えられる。(ちなみに高龍寺三世住職は欝山東積。)


『七世整天喝道頂相』(高龍寺所蔵)

興味深いのは、高龍寺がこの光明庵造営の前、1731年に茂辺地村の宝樹庵(現在の曹渓寺)、1736年に上磯村の観音庵(現在の広徳寺)、1745年に市之渡村の大悲庵(現在の円通寺)を造営している点である。いずれも現在の北斗市内にあるということも面白いが、これらの時期が東蝦夷地直轄化(1799年)前夜にあたり、急速に箱館近隣の下海岸や噴火湾一帯が和人地化されていった時期でもある。こうした和人地化に合わせて各宗派寺院が教線拡大を図ることは自明であり、光明庵等の造営についても高龍寺によるそうした活動のひとつと見ることができる。

光明寺境内に設置されている説明板の内容は次のとおりである。(原文のまま)

光明寺(こうみょうじ)
光明寺は本寺函館市高竜寺7世整天喝道大和尚が明和4年(1767年)一字を建立し光明庵と称したが天保13年(1842年)破損せるを以って再建す明治23年(1890年)寺号公称して、慧日山光明寺となった。明治28年8月より3年がかりで改築し現在に至る。
曹洞宗。本尊は釈迦牟尼物。境内にある地蔵菩薩は天保14年(1843年)檀信徒有志によって寄進された。飛地境内地として観音山がある。文化年間(1804年〜1808年)大野・市渡・文月の三村に馬牧場があったが、クマの被害が多く住民は困り切っていた。
これを聞いた光明庵(後の光明寺)の仏母扶宗和尚が馬頭観世音菩薩と33体の観音像をまつり、観音堂を建立し住民の不安を除き、旦村民風雨の際の避難所となした。墓地には、箱館戦争榎本軍永井蠖伸斎、網代清四郎両人の墓。箱館戦争官軍、松前、安芸福山、越前大野三藩戦死者の墓。土佐藩北海道開拓団杉本安居の墓。大野初代村長神谷小太郎の墓。医師宍戸精庵家族の墓。内、宍戸泰庵の墓は仙台例藩主伊達邦成の書
例江戸の漢学者向坂吉兵衛の墓がある。

■光明寺 〒041-1201 北斗市本町290

■参考
『高龍寺史』 平成15年 高龍寺史編纂室編
『大野町史』 昭和45年 亀田郡大野町刊
『北海道寺院沿革誌』 明治27年 星野和太郎編 ※国立国会図書館近代デジタルライブラリー


カール・レイモンのハム・ソーセージ工場跡

北斗市渡島大野駅の前にあったカール・レイモンの工場。2008年の訪問。

カール・レイモンの工場跡

2008年3月20日撮影。旧大野町教育委員会設置の説明板に記載の内容は以下のとおり。

カール・レイモンのハム・ソーセージ工場跡

カール・レイモン(1894〜1988)は、昭和7年(1932)大野村の本郷駅(渡島大野駅の前名)近くに工場を完成し、翌8年に大野工場と名付けた。

工場・住宅、そして牛35頭・豚310頭を飼育する大きな畜舎やサイロ、更に食肉処理加工場まで合わせ持つ、ハム・ソーセージ造りの大施設工場で、まさに、レイモンが提唱していた北海道開発プランのミニチュア版であった。

畜育から食肉加工までの一貫経営は、経済的・人的資源の活用や産業の育成等地域との交流が行われた。

また、敷地内にミニ動物園を開設して、ライオン・猿・鷲・犬・猫等を飼育し、地元はもとより函館市内からも小学生が遠足で訪れ賑わった。

昭和13年(1938)強制買収によって、大野工場は閉鎖され、函館へ移住を余儀なくされた。

動物の霊を奉った獣魂碑は工場内にあったものを市渡住民の手により、近くの市渡馬頭観音の境内に移設安置されている。

平成12年8月

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会


北斗市大郷寺の公孫樹記念保護樹木

北斗市大郷寺にあるイチョウの木。樹齢は200年以上と推定されている。

大郷寺の公孫樹

2008年1月19日撮影。

保護樹木指定に係る北海道設置の説明板の内容は以下のとおり。

大郷寺の公孫樹記念保護樹木

この木は、樹齢175年と推定されるいちょうの木です。文化2年(1805年)に本郷の開祖、白川伊右衛門、僧西宣の2人が来道し、のちの13年後、現在の大郷寺の地に移ったとき、このうちのどちらかが、植えたものと思われるが不明である。

秋には、たくさんの実をつけ、参拝と合わせ大勢の町民でにぎわう、又隣接に幼稚園もあり子ども達の教育樹木としても親しまれている。

昭和47年3月25日指定

北海道


北斗市文月の小高神社と道祖神

北斗市文月の農地にたたずむ小高神社と道祖神。

小高神社と道祖神

2007年5月3日撮影。

小高神社と道祖神

2007年5月3日撮影。北斗市教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

小高神社と道祖神

戦後、樺太引揚者の人々は、かつて文月の「舟上(ふなあげ)」と称した開拓地に入植したが、苦労の末に手に入れた馬が相次いで熊の被害に遭った。

そのため昔から馬の産地として知られていた福島県相馬地方の小高神社にあやかって、昭和25年(1950)、馬を守ってもらおうと建てたのが文月の小高神社であり、馬頭観音が祭神となっている。

昭和44年、この付近から掘り起こされた三柱の道祖神が境内に安置された。表面には模様とも文字ともつかないものが刻まれ、何を意味するのかは不明である。かつては祠の中にまつられていたが、風雪のため姿を消し、山上から運ばれてきた土砂に埋没したと伝えられる。

道祖神は旅の安全祈願の神で、村境や峠の上に建て悪霊をさえぎるものとされた。後に男女交歓の場ともなったことから、縁結びの神、子授けの神として崇拝されている。

この辺りは松前藩の鷹場だった姉弟山へ通ずる所で、松前藩主も鷹狩りによく通った道であったため、この地に道祖神がまつられたとも考えられている。

平成18年3月吉日

北斗市教育委員会


史跡松前藩戸切地陣屋跡(2007年)

北斗市の松前藩戸切地陣屋跡。写真等は2007年訪問時のもの。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。清川寺の前からアクセス。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。陣屋入り口。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。説明板に記載されている史跡の全体図。クレジットは文科省と?

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。説明板に記載されている内容は以下のとおり。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

この陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。

構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており6つの砲座があります。

郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払っています。

この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、昭和40年3月18日、国の史跡に指定されました。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。史跡内部に建てられていた碑。

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2007年3月21日撮影。史跡内部の概観。


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