千代田一覧

千代田稲荷神社と藤田翁頌徳碑

北斗市千代田の千代田稲荷神社。境内には農業で功績のあった藤田翁を称える碑がある。

 

千代田稲荷神社

2007年3月11日撮影。

 

千代田稲荷神社

2007年3月11日撮影。旧大野町設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

千代田稲荷神社と藤田翁頌徳碑

千代田稲荷神社は、寛政6年(1793年)に勧請されたもので祭神は、倉稲魂命である。明治9年に村社となる。杉の木立が主となって鎮守の森を造っており、祭神は毎月8月25日に行われている。境内に藤田市五郎翁の碑がある。翁は慶応元年(1865年)千代田西川原で生まれ、幼少時、米沢藩の漢学者松本新平の門下生として学問を志した。温厚な人柄で多きの公職につき、住民の信望も厚く、開拓精神に富み、農業発展の基礎づくりに励んだとされております。20歳の時、札幌農業学校長佐藤昌介博士の紹介で東大農学部に西洋野菜栽培勉強のため上京した。明治44年(1911年)ケチャップの製法に取り組み大正11年(1922年)には、南鷹次郎、星野勇三博士の学説を取り入れて温室をつくりトマト、ニンジン、サンショウを栽培した。昭和6年には、ピューレー(ケチャップの原料)の製造に成功し、年間25,000本(ビールびん相当)を生産し、函館五島軒ホテルと契約して納入した。石碑の碑文は南鷹次郎(北農会長・北大学長)で、筆は、北海道長官沢田牛麿によるものである。

平成2年6月

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

 

 

藤田翁頌徳碑

2007年3月11日撮影。千代田稲荷神社境内にある藤田翁頌徳碑。旧大野町教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

藤田翁頌徳碑

北海道庁長官従四位勲三等

澤田牛麿書

 

藤田市五郎頌徳碑

藤田市五郎翁慶応元年生於亀田郡大野村字千代田村為人温厚篤實志操堅固及長就村内公職熱心精励盡其任夙憂村勢萎靡住民困苦明治二十八九年排百難鑿溝渠開水田漸次進其功墾闢達二百町歩荒野一変化美田者一依翁之力矣又勧奨蔬菜果樹之栽培高其聲價設置放牧場促馬匹蕃殖其他指導村民改良農事矯正風紀等不遑挙焉以其功績顕著受旌賞及前後十回蓋異数矣翁之當時也不厭労不吝費以百折不撓之精力一意盡奉公之誠而克重言責一諾期必成以是村民信頼益篤徳望愈高翁年歯雖超耳順壮気不衰而村民之待於翁者亦多矣有志茲相謀建碑伝功績於後昆使郷人知所矜式焉

昭和四年

北海道農会長正三位勲二等農学博士

南鷹次郎撰并書

平成13年9月吉日

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会


千代田巡査駐在所跡

千代田稲荷神社の境内に駐在所が置かれていたとのこと。

 

千代田駐在所跡

2007年3月11日撮影。説明板は神社の隣、消防団の建物の脇に設置されている。

 

千代田駐在所跡

2007年3月11日撮影。旧大野町教育委員会設置の説明板。内容は以下のとおり。

 

千代田巡査駐在所跡

千代田巡査駐在所は、明治37年(1904)5月10日、千代田村有志の寄付により、千代田稲荷神社の境内に設置された。記録によると「初代の駐在巡査は石原貞助なり」とある。

設置当初は七飯警察署の所属であったが、明治40年、同署の廃止によって大野警察分署の所管となり、昭和23年(1948)には警察機構改革で函館地区警察署所属となった。

担当区域は大野村字千代田、一本木、萩野、東前、清水川、南大野、文月、上磯村字追分、七飯村字豊田の三村にわたり、明治から昭和にいたる50数年間、北海道警察の発足で、昭和30年代に大野警察官派出所に統合、廃止されるまで、地域住民の安全確保と函館や道央各地を結ぶ人馬の往来、物流などに大きな役割を果たした。

昭和に入ると、住民の駐在所に寄せる期待と信頼は大きくなり、負担も大きくなった。戦後は駐在所と地域住民との結びつきはさらに深まり、地域の行事や婚礼などにはよく駐在さんの姿を見かけたものである。

平成16年11月吉日

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

 


千代田の忠魂碑と庚申塚

北斗市千代田。地名の由来と忠魂碑、庚申塚。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。忠魂碑。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。庚申塚。

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

2007年3月11日撮影。説明板の内容は以下のとおり。

 

千代田

千代田の開村は「大野村史」や「蝦夷実地検考録」にある千代田稲荷神社勧請の記録から、寛政年間(1789〜1800)と推定され、藤田家の記事にも「先祖藤田八五郎は、陸奥国軽米郡軽米村に生る。寛政元年本道へ渡り、本村に居住をぼくす」とある。

文化2年(1805)、大野平野一帯で幕府直轄による大開田が行われると、千代田でも文化元年に渡来した島津才兵衛が、同3年に南部八戸より農家12戸を募集して開墾している。また、文化2年には松前の富商・伊達林右衛門も同地で新田を耕し「伊達村ト唱フ后之ヲ千代田村ト改称ス」と「伊達家文書」にあるが、正確な場所はわかっていない。

千代田の言い伝えに鶴の飛来が多かったので、鶴田と称したとあるが、「蝦夷実地検考録」の記述から、江戸の千代田村にあやかって後の繁栄を願い、千代田と称するようになったと推定できる。寛政12年(1800)に幕府が米の試作を行った際に千代田という地名を使用しており、同年、蝦夷地を実測した伊能忠敬の地図にも千代田と記されている。

はじめ千代田郷と呼ばれ、明治6年(1873)に千代田村となった。同13年、大野ほか5か村の戸長役場が大野村に設置され、同33年に大野村に統一。全道から大野村ほか15か町村が1級町村に選ばれ、千代田村は「大野村大字千代田」となる。道道大野上磯線の旧道を堺に、西側を西川原、東側を東前谷地と呼び、ほかにも西川原通、川向ドドメキ、東前谷地通の5つの字があったが、昭和7年(1932)の字改正で千代田、東前の2字となった。昭和32年に大野は町制を施行し、平成18年(2006)2月1日、上磯町との合併によって北斗市となる。

 

平成17年5月末現在 千代田町内会

世帯数 120世帯  男 175人  女 221人  合計 396人

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

千代田と一本木の堺にあたるこの地に「忠魂碑」「庚申塔」と刻まれた2つの石碑がある。

忠魂碑には「明治44年(1911)3月10日建立 日露戦役戦死者 奉天旅順戦没 陸軍特務曹長 勲七等功七級 藤田弥三郎 建立 千代田在郷軍人」と刻まれている。

明治27年(1894)の日清戦争の戦死者は1万7千人を数え、同37〜38年の日露戦争でも日本は旅順攻撃、奉天会戦、日本海海戦などで勝利を収めたが、戦死者は11万8千人に上り、特に奉天、旅順での戦いは熾烈を極めた。

日露戦争後、時の西園寺内閣は、全国民の意識鼓舞と団結融和、戦死者の鎮魂を目的に、全国市町村に忠魂碑の建立を指示、千代田の忠魂碑もその時に建てられたものである。建立以来、8月25日の千代田稲荷神社祭典で、神事の前に碑前で祈年祭が行われている。

庚申塚は本郷、市渡、文月、千代田にあり、本郷が寛政8年(1796)建立で一番古く、2番目は文月の文化9年(1812)、千代田は嘉永3年(1850)である。

庚申は干支の60日または60年ごとに巡ってくる「庚申」のことで、信仰は中国の道教に始まったといわれる。人間には3つの悪い癖があり、これを3匹の虫にたとえ、この癖を改めさせるため「更新」とかけて庚申の日を謹慎日とした。三虫は体の中に住み、庚申の夜、寝ている間に抜け出して天帝(帝釈天)に罪を告げ、命を短くされるので、庚申の夜は虫が出ないように眠らずに慎んだという。奈良時代に日本に伝わり、室町以降、通行の安全や五穀豊穣、悪病退散など、ご利益や庶民の願いに変わると、江戸時代には村はずれや辻に塔を建てることが盛んになった。神道では申と猿を結びつけて猿田彦をまつる。

この場所は奥地(道央)へ往来する役人や探検家も通過した道で、道中の安全と村に災いが入らないことを祈願したものと考えられる。碑面には「庚申塔 嘉永三年八月、名主 島津才兵衛、大和屋○○、吉田弥四郎、藤田八五郎、安藤重吉、金濱丹治」とあり、名主以下の三役と千代田の重立人の名が彫られている。町人、百姓に苗字が許されなかった時代に、はっきりと姓名をつけているというのも見事な心意気といえる。

基礎は昭和30年(1955)に修理されたが、碑石は嘉永3年のままで、平成16年(2004)8月千代田の人たちは忠魂碑の基礎改修にあわせて、庚申塚の基礎も補修した。


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