台東区一覧

根津神社

相当な由緒がある根津神社。徳川将軍家とのつながりも深い。

 

2012年2月19日撮影。

 根津神社

根津神社

根津神社

根津神社

根津神社

 

文京区教育委員会による説明板の内容は次のとおり。

 

根津神社

国指定建造物

文京区根津1-28-9

日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに六代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。五代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営した。

社殿は拝殿・本殿と両者を接続する弊殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。

祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公である。

境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民族文化財)、「塞の大神碑」などがある。

—郷土愛をはぐくむ文化財—

文京区教育委員会

平成10年3月

 


赤穂浪士ゆかりの寺〜観音寺〜

この寺は、もともと長福寺と称されていたが、享保元年(1716年)に現在の観音寺に改称したとのこと。本堂右手には赤穂浪士慰霊塔と伝わる塔が残されている。

 

2012年2月19日撮影。

 観音寺

赤穂浪士慰霊塔

台東区教育委員会による説明板の内容は次のとおり。

 

赤穂浪士ゆかりの寺

台東区谷中5丁目8番28号 観音寺

赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。

47士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。

寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作『元禄快挙録』には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。

本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、47士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山の名を刻む。

 平成16年3月

台東区教育委員会

Temple noted in connection with the 47 akoroshis

47 akoroshis are widely known in Japan through the story “Chushingura” which describes 47 samurais of Ako ( present Hyogo prefecture ) who avenged their master Asano Naganori by making a raid on his foe Kira Yoshinaka. Two of 47 Akoroshis, Chikamatsu Kanroku Yukishige and Okuda Sadaemon Yukitaka, were brothers of Bunryo who was studying at this temple. Bunryo later became the 6th head bonze of this temple and was named the Great Bonze Chozan.

Bunryo is said to have done all he could to help Akoroshis and it is said that they held many meetings at this temple. The book called “Genroku kaikyoroku” written by Fukumoto Nichinan in the late Meiji period mentions that Kanroku left his last words “Please tell Bunryo in the Chofukuji Temple that I am willing to give my life to avenge the death of my master today”. This temple was originally called the Chofukuji Temple and was renamed the Kannonji Temple in 1716.

The pagoda to the right of the main hall is known as a memorial tower of Akoroshis and people still visit it today. On the upper part of the pagoda was engraved Sanskrit words that stand for the Buddhas in the north, the south, the east and the west. On the lower part, Hokyoindaranikyo ( a sutra ) and on March in 1707, the name of the 6th Head Bonze of this temple Chozan was engraved.


谷中ぎんざ商店街

都内で最も活気ある商店街の一つ。いつもたくさんの人で賑わっている。

興味深いのは、道行く人々の多くが「買い食い」をしていること。手に商店街で購入したコロッケなどをもち、食べながら気ままにブラブラできる。

そんな素敵な商店街。

谷中ぎんざ

谷中ぎんざ

「肉のすずき」前には、人気のメンチカツを求める行列ができていた。

谷中ぎんざ

行列に並び、苦労してゲットしたメンチカツ。並ぶ価値は、間違いなく「有る」。

谷中ぎんざ

商店街各店舗に飾られている版画。それぞれ異なる図柄で、大変面白い。

谷中ぎんざ

 

写真はいずれも、2012年2月19日撮影。

 

 


対鷗荘跡

白鬚橋を渡ってすぐ台東区側に建てられているのが対鷗荘跡の説明板。

その横には、病に倒れた三条実美のもとを明治天皇が訪れたことを顕彰する碑が建てられている。

 

対鷗荘跡

2011年11月13日撮影。対鷗荘跡の碑。

 

顕彰碑

2011年11月13日撮影。明治天皇が対鷗荘の実美を訪れたことを記念する碑。

台東区教育委員会の説明は以下のとおり。

 

対鷗荘跡(たいおうそうあと)

台東区橋場2丁目1番

隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘もその一つで、明治時代の政治家三条実美(1837〜91)の別邸であった。

「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治6年(1873)の10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年12月19日明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪ねている。

隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鷗荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3メートル余。側面に「昭和六年歳次辛未五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。

対鷗荘は、昭和3年(1928)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。

平成7年3月

台東区教育委員会

 


桜橋

隅田公園において、墨田区と台東区を結ぶ歩行者専用の桜橋。両区は昭和52年に姉妹区協定を締結し、その記念事業として昭和60年に完成した。

桜橋

2011年9月23日撮影。墨田区側から台東区側を見る。

 

桜橋 

2011年9月23日撮影。逆に墨田区側を見る。

 

桜橋

2011年9月23日撮影。桜橋上からの隅田川。

桜橋手前の散策解説板の内容は次のとおり。

 

隅田公園 散策解説板5

桜橋とポトマック帰りの桜

ワシントンからの贈り物

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac – as a present from Washington D.C.

台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和52年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和60年に桜橋が完成しました。

この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。

約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

In 1977 (Showa 52), Taito-city and Sumida-city made a siter-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park was planned and “Sakura Bridge” was completed.

In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D.C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D.C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D.C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C.

After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.

 

場所:http://g.co/maps/a9s9m

 


浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その4〜

女性の守り神とされる淡島明神を祀った淡島堂。

淡島堂

2011年8月7日撮影。

淡島堂 

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

淡島堂(あわしまどう)

台東区浅草2丁目3番 浅草寺

淡島堂は、元禄年間(1688〜1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。

淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行われ、女性の参詣人が群衆する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。

 平成8年3月

台東区教育委員会

AWASIMA-DO

Awasima-do was built in the late 17th century to worship a god called Sukunahikonona-mikoto who is enshrined at Kada shrine in Wakayama prefecture. This god is famous as a guardian of women. Especially during “needle memorials” when women express gratitude by bringing used sewing needles and sticking them into Tofu (bean curd), the shrine attracts a lot of people.

 

戦時中、この桶に本尊を納め戦火から守ったとのこと。

 天水桶

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明は次のとおり。

 

天水桶

太平洋戦争が激しくなってきた、昭和18年(1943)11月18日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音さまをお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに納めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。

戦後の昭和22年(1947)3月7日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。

明和7年(1770)造立。

金龍山 浅草寺

 

この灯籠は、造立年代は不明ながら、「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名だったとのこと。

 胎内くぐりの灯籠

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明は次のとおり。

 

胎内くぐりの灯籠

この石灯籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、この灯籠の下をくぐることで、子供の虫封じや疱瘡のおまじないとなるとされている。

お子様をお連れでご参拝の折には、お子様にくぐらせてみてはいかがでしょうか。

造立年代は不明。

金龍山 浅草寺

 

一つだけに絞ってお願いするとかなうと言われる「一言不動尊」。享保10年(1725)の造立とのこと。

 一言不動尊

2011年8月7日撮影。

 

聖観音菩薩像。尾張国の孝山義道発願により、享保5年(1720)に建立されたと言われる銅像。

 聖観音菩薩像

2011年8月7日撮影。

 

江戸前期、承応3年(1654)に造立された阿弥陀如来像。この像については、文化10年(1813)編纂の『浅草寺志』にも記載されているとのこと。

 阿弥陀如来像

2011年8月7日撮影。

 

有名なかき氷店の前にある二尊仏。貞享4年(1687)の造立。

二尊仏 

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

二尊仏(浅草寺)

台東区浅草2丁目3番 浅草寺

「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観音(右)、勢至(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36メートル、蓮台を含めれば4.54メートルにおよぶ。基壇の組石は、長さ約12メートル、幅6.21メートル、高さ1.5メートルとなっている。

連弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛。かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享4年(1687)8月に造立した。

江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町の太田久衛門正儀の作。

安永6年(1777)2月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。

 平成10年3月

台東区教育委員会

TWO BUDDHAS

The two statues are: Bodhisattva Avalokiteshvara on the right and Bodhisattva Seshi on the left. They are both 2.36m in height. In 1687, Takase Zenbee from Tatebayashi, ( present day Gunma prefecture ) made these statues to repay the debt of gratitude to the rice wholesaler family who helped him, the Avalokiteshivara for the father and the Seishi for the son.

 

二尊仏と背中合わせに奉安されている地蔵菩薩像と阿弥陀如来像。右側は寛文11年(1672)造立の阿弥陀如来像、中央は享保11年(1726)造立の地蔵菩薩像、左側は延宝5年(1677)造立の阿弥陀如来像。

 地蔵菩薩像と阿弥陀如来像

2011年8月7日撮影。

 

弁天堂の手前にも芭蕉の句碑がある。寛政8年(1796)に建立されたもの。

 芭蕉句碑

2011年8月7日撮影。浅草観光連盟による句碑の説明は次のとおり。

 

松尾芭蕉の句碑

くわんをんの

 いらか見やりつ

  花の雲  はせを

俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。

芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日、大坂の旅舎で51年の生涯を閉じました。

この句碑は寛政8年(1796)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。

八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。

奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』という季語が詠みこまれております。

 平成2年4月吉日

浅草観光連盟

 

浅草寺手前に丘になった場所がある。その上にあるのが弁天堂。関東三弁天の一つ。弁天堂手前の鐘は「時の鐘」として広く知られている。

時の鐘 

2011年8月7日撮影。時の鐘。

 弁天堂

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明は次のとおり。

 

弁天堂

弁天山と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和58年に再建されたもの。

ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。

境内の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)5代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か浅草か』で有名。現在は、毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。

弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。

金龍山 浅草寺

Bentendo Hall

Bentendo Hall was reconstructed in 1983 on the small hill called “Benten-yama”. The principal image of this temple has white hair. Therefore we call it “Rounyo-Benzaiten”. (“Rounyo” means an old woman and “Benzaiten”, the goddess of music, art and wealth, is the name of the image.) This statue is one of the Three famous Benzaiten around the Kanto district. In the medieval period Hojo, a great daimyo in Odawara, had faith in this statue.

The bell in the belfry has been known as the hour bess casted in bronze by Tokugawa shogunate in 1692, and also famous for a haiku by Matsuo Basyo (1644-94). Nowadays, a priest of Senso-ji strikes at six oclock every morning.

 


浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その3〜

江戸時代前期に活躍した歌人戸田茂睡の墓。

戸田茂睡の墓

2011年8月7日撮影。都教委設置の説明板の内容は次のとおり。

 

都旧跡 戸田茂睡墓

所在 台東区浅草2丁目7番31号 浅草寺奥山庭苑内

指定 大正8年10月

元禄時代の歌人。はじめは渡辺氏を称し、のち戸田茂睡に改めた。名は馮、後に恭光、通称は茂右衛門。露寒軒などと号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第六男として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。その後は那須黒羽で暮らし、のち本多政長に仕えて300石を給されていた。延宝年間の末致仕し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を著して和歌の制の無用を説き、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)4月14日、年78で歿した。「紫の一本」「御當代記」「隠家百首」「鳥の迹」などの作品がある。なお

  塵の世をいとふ心の積りては

   身の隠れかの山となるらん

とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。

昭和43年3月1日 建設

東京都教育委員会

 

 力くらべ大会で持ち上げられた石。どれもかなり重そうだが、昔の人達もかなりの力自慢がそろっていたらしい。

力石 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は次のとおり。

 

力石

力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。

正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。

金龍山 浅草寺

 

江戸前期、三匠と呼ばれた俳人、西山宗因・松尾芭蕉・榎本其角の句が刻まれている碑。

三匠句碑 

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

三匠句碑(さんしょうくひ)

台東区浅草2丁目3番浅草寺

ながむとて花にもいたし頸の骨   宗因

花の雲鐘は上野か浅草か   芭蕉

ゆく水や何にとどまるのりの味   其角

江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。

西山宗因(にしやまそういん) 慶長10年(1605)肥後(熊本県)の生まれ。後、大坂に住み談林の俳風を聞く。この句は『新古今集』にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。天和2年(1682)没。

松尾芭蕉(まつおばしょう) 正保元年(1644)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、『おくのほそ道』は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄7年(1694)大坂で没。

榎本其角(えのもときかく) 寛文元年(1661)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永4年(1707)の没。

碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年(1894)春の移築の由来が記されている。

平成8年3月

台東区教育委員会

 

明治期に慈善事業に尽力した瓜生岩子の銅像。

瓜生岩子女史銅像 

2011年8月7日撮影。

瓜生岩子女史銅像

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

瓜生岩子女史の銅像

台東区浅草2丁目7番

岩子は通称。正しくは”岩”という。文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生まれたが、9歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を務める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。

明治30年4月19日、福島で没す。享年69。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。

平成8年7月

台東区教育委員会

BRONZE STATUE OF URYU IWAKO

Uryu Iwako was born in Kitakata, Fukushima prefecture on February 15, 1829. Iwako was her popular name, and her real name was Iwa. At the age of nine, she lost her father, and her mother went back to her parents’ home together with Iwa. When she was 14, she was entrusted to her aunt, and was educated by her uncle-in-law, who was a doctor in the Aizu clan.

After the Meiji Restoration, she exerted efforts for the education of young girls in the Aizu clan and also established the Fukushima Relief Facility for the assistance to the poor and orphans. She also founded the midwifery research institute and the Saisei Hospital in Kitakata, thereby promoting social work. She died in Fukushima on April 19, 1897. To praise the good conduct of Iwa, who devoted her whole life to charitable work, this bronze statue of her was erected here in April 1901.

 


浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その2〜

浅草寺本堂向かって左側、注意していなければ見逃してしまいそうな、小さな石の橋がある。なんと、現存する都内最古の石橋らしい。ちなみに「いしばし」ではなくて「しゃっきょう」とのこと。

石橋

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

石橋(しゃっきょう)

現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。

この石橋は昭和23年、文部省より重要美術品に認定されている。

金龍山 浅草寺

 

西仏なる人物が建てたとされる板碑。板碑とは主に供養塔として建てられるもの。建立時期も不明だが、鎌倉末期〜室町初期と推測されているとのこと。

中世における宗教の様子をうかがい知る資料として貴重であるため、東京都指定有形文化財となっている。

板碑

2011年8月7日撮影。東京都教育委員会による説明板の内容は以下のとおり。

東京都指定有形文化財(歴史資料)

西仏板碑

所在地 台東区浅草2丁目3番1号 浅草寺

指定 昭和17年9月 旧跡  昭和56年3月12日 種別変更

建立者の西仏(さいぶつ)については明らかではないが、この板碑は彼が妻子の後世安楽を祈って建立したものと推測される。建立の年代も不詳であるが、鎌倉末から室町初期かと思われる。

上部が破損しているが、制作時には3メートル近くあったものと思われる。寛保2年(1742)暴風雨によって倒れ破損、文化11年(1814)に有志が側柱を立てて支えたという。材質は秩父粘板岩(青石)。

現存の板碑の大きさは高さ217.9センチメートル、幅48.0センチメートル、厚さ4.7センチメートル。

中世の信仰を知るうえで貴重な遺品であり、かつ巨大板碑の典型例である。

平成8年3月25日 建設

東京都教育委員会

 

影向堂、「ようごうどう」と読むらしい。もともと本堂の南東にあったものだが、平成6年慈覚大師円仁の生誕1200年記念として現在地に再建されたもの。

影向堂

2011年8月7日撮影。影向衆を祀る影向堂。

 

六地蔵石幢。造立は、石幢が流行した室町時代であると考えられる。現在の場所に移されたのは明治期とのこと。

六地蔵石幢

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

六地蔵石幢(せきどう)

石幢とは石塔の一つで、龕部(がんぶ)(仏像を納める厨子のこと)の六面にお地蔵さまが刻まれている。

造立年代は不明だが、一説に、源義朝参拝の折に鎌田正清によって建立されたといわれる。

しかしながら、石幢造立が流行した室町時代の可能性が高い。

もとは雷門の東方にあったもので、後に花川戸、明治になってこの地へ移された。

金龍山 浅草寺

 

元和4年(1618)に建立された、都内でも珍しい六角堂。浅草寺境内では最も古い建造物である。本尊は造立年代不明で木造の「日限(ひぎり)地蔵尊」。日数を決めてお願いすると、願い事がかなうと言われているらしい。

六角堂

2011年8月7日撮影。東京都教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

HEXAGONAL TEMPLE

東京都指定有形文化財(建造物)

浅草寺六角堂 一棟

所在地 台東区浅草2丁目3番1号 浅草寺

指定 昭和27年11月3日

六角堂は『浅草寺誌』(文化10年編)に元和4年(1618)の建立とあり、江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内では最古の遺構である。

木造で単層の六角造り瓦ぶき形式で、建物中央の直径は1.82メートルあり、一面の柱真々は0.91メートルである。

建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部に11段の石積みをした1.5メートル余りの井戸状の穴が掘られている。

六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財である。

もとは東方21.8メートルの場所(現・影向堂の南基壇上に元位置の明示あり)に建っていたが、平成6年10月境内整備のためここに移された。

東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。

平成8年3月25日 建設

東京都教育委員会

 

Tangible Cultural Property (Building)

Senso-ji-Rokkakudo

In early Edo period (around 1618)

Wooden structure, One-story, Hexagonal style, Light weight tile roofing (a pantile that combines broad concave tiles and semi-cylindrical convex tiles), Lacquered in red, 1.82m inner diameter, 0.91m side lenght(distance between pillar centres)

According to Senso-ji-Shi (chronicle of 1813 edition), Senso-ji-Rokkakudo was built in 1618 and is therefore the oldest architecture in Senso-ji. This building is valuable since hexagonal architectures are rare in Tokyo. It was originally located 21.8m further east (the original location is inscribed on the south podium of Yougou-do), but moved to its current position in October 1994 due to rearrangement.

Tokyo Metropolitan Board of Education

 


浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その1〜

浅草寺境内にはたくさんの碑や名所が残されており、ほとんどに浅草寺による説明板が設置されている。以下、目に付いたものを紹介させていただく。

本堂に向かって左側に建てられた大きな石柱。「迷子しるべ石」といい、迷子が出たときにそれを知らせる役目を負っていたらしい。それ以外にも貼り紙による情報交換に活用されていたとのことで、江戸の人通りの多いところに建てられたものの一つが、ここ浅草寺に残るものである。

迷子しるべ石

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

迷子しるべ石

昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。

石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。

安政7年(1860)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和20年の空襲で倒壊したため、昭和32年に再建された。

金龍山 浅草寺

 

鳩ポッポの歌碑。境内で鳩と戯れる子どもたちの姿を元にして明治34年にできた童謡「鳩ポッポ」。作詞は東くめ、作曲は滝廉太郎である。この歌碑は、昭和37年(1962)に建立されたものである。

鳩ポッポの歌碑

2011年8月7日撮影。

 

江戸時代の有名な石工大窪世祥によるものと思われる「正観世音菩薩碑」。

正観世音菩薩碑

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

正観世音菩薩碑

「正観世音菩薩」と碑の正面に刻まれている。当寺には観音さまを表した金石が多く奉安されているが、その中でもひときわ大きい碑である。

この石碑の銘文は長年の風雪により摩滅が進んでいるが、「文」や「窪世」とわかる所が残されていることから、江戸時代の有名な石工の大窪世祥が、文化・文政年間(1804〜29)頃に文字を彫ったと思われる。

他にも世祥の金石は3基、境内に残されており、当寺にも関わりの深い人であった。江戸町人の信仰を載せた金石が運ばれ、活気付く境内の様子が目に浮かぶようである。

南無観世音菩薩

金龍山 浅草寺

 

本堂向かって左側に配置された阿弥陀如来像。元禄6年(1693)建立という、かなり古いものである。もともとは本堂裏にあったものを、平成6年にこの場所に移したとのこと。

阿弥陀如来像 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

阿弥陀如来像

阿弥陀如来さまは、極楽浄土にあって法を説き無量の光明と寿命をもって永遠の生命を与えてくださる仏さま。

この像は唐銅製で、阿弥陀三尊像として元禄6年(1693)に千人近い信徒によって建立された。もとは本堂裏にあったものを、平成6年にこの地に奉安した。総高7.5メートル。極楽往生の諸霊の頓証菩提を祈る。

金龍山 浅草寺

 

阿弥陀如来像隣の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」。宝暦11年(1761)建立、明治40年に再建されたもの。宝篋印塔とは、内部に「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔のこと。

宝篋印塔 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝暦11年(1761)、浅草寺信徒約千人によって建立され、明治40年(1907)に改修再建されたもの。唐銅製。

宝篋印塔とは、塔内に『宝篋印陀羅尼経』を納めた塔のことで、参拝諸人は計り知れない功徳を得るといわれる。

金龍山 浅草寺


五重塔@浅草寺

浅草寺本堂へ向かい宝蔵門を抜けたすぐ左手に五重塔がそびえる。昭和48年に再建された、赤が鮮やかな塔である。

浅草寺の五重塔、そもそもの始めは天慶5年(942)にまでさかのぼるとのこと。また、戦前までの塔は現在の位置とは反対側の、本堂向かって右側にあったらしい。

浅草寺の説明板によると塔内は非公開とのことであるが、浅草寺の公式サイトに五重塔内の写真がいくつか掲載されているのでご参照されたい。なお、スリランカから勧請した仏舎利の画像も掲載されている。

 

 

 

五重塔 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

五重塔

そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。

浅草寺五重塔は、天慶5年(942)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和20年3月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)

以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年に現在の五重塔を再建するに至った。

地上からの高さは約53メートルある。

(塔内非公開)

金龍山 浅草寺

The Five-storied Pagoda

This pagoda, founded in 942, was rebuilt by Tokugawa Iemitsu in 1648. It burned in 1945 during World War II and was reconstructed in 1973. On that occasion, memorial tablets of devout believers who had passed away were placed in the pagoda’s foundation, and a bone relic of the Buddha presented by Sri Lanka was placed in the topmost story of the pagoda.