向野一覧

落書き

落書き

拙宅周辺も完全なる雪解けにて地面にチョークでお絵かきできるようになりました。無地に思うまま書き込めること楽しみ。これを楽しめる時間は長いものではないと思いますが。存分に味わって欲しいものであります。


デントコーン

デントコーン

 

自宅裏のデントコーン畑。今年も立派に実っております。まもなく収穫の時期でしょうか。風が吹くたびに、稲穂の如く黄金色をした波が生じ、窓から眺めていても飽きることがありません。

刈り取られると、もうそのあとは、一面真っ白な雪原となる季節です。一面の雪景色も目を楽しませてくれるのですが、どちらかというと生命力にあふれるデントコーンの方が、好みなのであります。

 


町内会のおまつり準備

向野町内会おまつり準備

向野町内会おまつり準備

明日は町内会の夏まつり。今日は町内会役員一同、夏まつりの会場準備を行った。小生は初めての参加であり櫓やテントの配置等知らないことばかりであったが、諸先輩方にご指導いただき微力ながら作業の一員に加えていただいた。明日の天候も今日と同じような曇りの予報だが、雨だけ回避できればと願っている。

それにしても役員の皆さん、高齢とは思えない身のこなし。鉄柱にスピーカーを設置するときも、するすると梯子を登る様子にはとても驚かされた次第。

すいか

作業の締めくくりはスイカ。腹たぷたぷ。

 


大正サイロ

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何気ないモノにも歴史とストーリーがある。大人気のソフトクリーム販売が平成14年からの開始、というのもちょっとしたtips也。

大正サイロ
大野町向野の道道上磯峠下線沿いにある鈴木牧場前に、大正9(1920)年に造られたサイロがある。
牧場主の鈴木欽太郎が27歳の時に、桔梗の園田牧場でサイロ造りを学び、同年9月に自家用サイロの建設に着手、10月末に完成した。
高さ4mの櫓を組み、直径2m、深さ5mで、地下はセメントで周囲を固めている。地上は川石を削り、円柱形にセメントで形を整えて、頂点はややドーム型のトンガリ帽子のような仕上げとした。
手動式のカッターで刻まれたデントコーンがサイロに保存され、6頭の牛は何とか春まで飼育することが出来、この年以降牛乳は増収されたという。
近年はサイロを使用していないが、大正8年の創業当時から変わらない低温殺菌の牛乳は根強い人気がある。平成14(2002)年からは生乳を使用したソフトクリームも販売している。
平成15年8月吉日
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会

大野養蚕場跡

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明治期、生糸輸出による外貨獲得が国の重要な貿易手段だった、ということも向野における養蚕事業の背景にあったりして。

土塁は現在もその姿を残しているほか、大野農業高校となったかつての徳川農場敷地内は今でも周辺住民の憩いの場となっている。

 

大野養蚕場跡
向野の地には、自生している桑の木があったことから、この北海道でも養蚕をやれないかと、当時の開拓使長官黒田清隆は、判官松本十郎に具体的に計画を立てさせ実行させたと伝えられている。
明治3年(1870)養蚕事業は札幌の桑園とここ向野が選ばれた。面積はほぼ33ヘクタールで4年(1871)に始まったが、6年(1873)には業績が上がらず中止となった。
明治8年(1885)七重勧業試験場の属地として大野養蚕場が開設され継続された。15年(1892)開拓使が廃止になり、明治19年(1896)以降、八雲の徳川義礼に払い下げられ大野養蚕場として運営され、その後徳川農場の名のもとに農家の副業として昭和の初めまで細々と続けられた。関東方面に「蝦夷の花」というネイミングで出荷された。
徳川農場は土塁と樹木で整然と区画され、330ヘクタールを擁していた。かつては、大野町民の憩いの場、あるいはグランドとして利用されたこともあった。現在は平坦部の大部分は、道立大野農業高等学校地になっている。また人々は徳川農場と呼んだり、桑園通りともいわれている。
平成12年8月
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会

スズボク

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鈴木牧場牛乳。今春もすでにオープンしており、連日、たくさんのお客さんが来ている。北斗市向野における春〜夏の一大観光名所。特に桜の時期は、法亀寺の桜と合わせ、たくさんの方がおいでになる。


岡山峰吉

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しだれ桜がすっかり有名になってしまった北斗市向野の法亀寺。読み方は「ほうきじ」。境内には、明治期にこの地で活躍した岡山峰吉の功績を称える石碑が残されている。岡山はかつて果樹王と呼ばれ村の人々から敬愛されていたらしい。

岡山峰吉の碑
碑文は「岡山峰吉君は理想に近き実業家なり。君を失いしは大野村の一大損失にして、その誇りとする青年の指導者を失いしなり」の一節から始まる。
明治末期から大正中期にかけて、村民から「果樹王」と呼ばれた岡山峰吉は、明治4年(1871)、茨城県河内郡太田で生まれた。同31年7月、夕張、長沼を経て、単身大野へ移住している。峰吉の果樹園はかつて山田致人(むねと)が果樹園を試みた地で、苗床10町歩、果樹園10町歩を経営し、りんご、なし、桜桃、ぶどうを栽培、年産額1万円の収穫を得るまでに成功したことが碑文に記されている。
その努力と大成功に村民から敬愛されたが、大正9年(1920)3月、数え年50の春に他界した。石碑は同年6月、峰吉の妻・蘭によって向野の道路沿いに建てられ、後に法亀寺に移された。碑文を書いた伊藤松太郎は函館の教会の牧師で、峰吉は熱心なクリスチャンでもあった。
短命で後継者のない、はかない果樹王であったが、法亀寺の墓に刻まれた遺言と思われる「我は復活也生命なり」という句から、世俗を達観した人であった。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会

観音山@北斗市向野

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北斗市向野の観音山。標高144m少々の小さな山。牧場時代、熊による被害が多く、その対策として馬頭観音を祀ったことに由来するらしい。今ではこの辺りまで熊が下りてくるという話は聞いたことがなく、せいぜい木地挽山の辺りの話。住宅地となったこの辺りも、明治の頃までは熊が行き来するような自然の山だったのだなと思うと興味深い。

以下、北斗市の説明板の内容。

観音山

観音山は向野279-1に位置し、標高144.4mの山である。

観音山の名称の由来は、馬頭観音を祭ったことによりはじまると言われており、郷土の馬頭観音の中で一番古いものであると言われている。

光明寺に残る古文書によると、大野・市渡・文月の三村が放牧場として貸付を受けた歴史を古く、文化年間(1804〜18年)頃と解される。

牧場の馬に対しては熊による被害が多く、熊から馬を守るために馬頭観音を祭ったのが観音山の歴史の始まりで、明治以降は、村の人々の和楽の場ともなった親しまれている。この地より大野平野を一望することができ大変風光明媚な場所である。

平成3年5月 大野町教育委員会

2014桜@北斗市向野

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ようやく桜の時期となった。拙宅向かいの桜並木が非常に素晴らしい。大野農業高校の敷地内であり、畑や牛舎との対比が良い。

大野農業高校は隠れた桜の名所。しだれ桜や桜並木は大変美しく、あまり知られていないため景色を独占した気分も味わえる。


大野養蚕場〜その2

現在の大野農業高校正面東側に土塁に関する説明板が設置されている。ちょうど「北海道大野農業高等学校」と書かれた標柱に並んで立っている。

当時あったという表門の姿はよくわからないが、土塁は雪のない時期にその面影を見ることができる。大野文保研のページのかるた絵がわかりやすいので、リンクを下記に張らせていただく。

 

 土塁
明治3年開拓使は、この地に養蚕所を設け桑園を開いた。
ここは、開拓使長官黒田清隆の要請で酒田の士族が開墾にあたったところであり そのとき表門のあった場所で当時ここには大きな「とびら」が設けられこれをはさんで土塁がつくられていた。
この土塁は、山形の鶴岡藩士である榊原十兵衛、水野重敬等65名が、明治8年5月から9月下旬までかかって築造したもの
開拓使時代の桑園跡として名残りをとどめている本道唯一の土塁となっている。
 昭和56年10月24日
  北海道大野農業高等学校同窓会

 

■参考
大野文化財保護研究会>おおの郷土史かるた>