厚岸町の国泰寺は、江戸時代後期、蝦夷教化等を目的に建立された蝦夷三官寺の一つ。蝦夷三官寺は国泰寺のほか、有珠の善光寺、様似の等澍院である。
国泰寺正面の標柱。
境内入り口手前にあるアイヌ民族弔魂碑。進出してきた和人はアイヌの人々に対し残酷な搾取、労働を強制し、多くの命が奪われた。そうしたアイヌの人々に対する碑である。
国泰寺の外門。風雪に耐えたためか、かなり老朽化が進んでおり、多くの補強がなされている。
同じく外門。補強の様子。門には徳川家の三つ葉葵紋が見える。
境内側から。補強材が倒壊を防いでいるように見える。
境内にある老桜樹。由来を記す説明板の内容は次のとおり。
老桜樹
厚岸町指定天然記念物 昭和35年10月1日
天保元年(1830)、国泰寺五世住職文道玄宋の時代、本堂と庫裡を修復する際にアッケシ場所請負人山田文右衛門が、奥州石巻(宮城県石巻市)から移植したと伝えられる樹齢160年を超える古木で、九世晦厳の文久3年(1863)にも、満開の桜の下で漢詩を詠んで風流を楽しんだことが記録されています。この桜は学名オオヤマザクラで、高さ約10M、幹周約3M、長い枝を四方に張出しており、その優美な姿から北海道の銘木にも選ばれています。
厚岸町教育委員会
境内の老木。こちらの由来については以下のとおり。
鉢植の李(はちうえのすもも)
文化2年(1805)春、開山文翁智政が国泰寺に赴任の途中、奥州街道を北上し挨拶のたえ仙台藩主邸に立ち寄った際、道中の慰めにと一鉢の李(スモモ)の木を贈られ、その後境内に地植えされたもので、樹齢は190年を超えるものといわれています。李はバラ科の落葉小喬木で、現在根元から二股に分かれて多くの枝を張り、新緑の頃には白雪のような花が咲き、初秋には小粒ながら黄味を帯びた実を結び、訪れた人々を楽しませています。
厚岸町教育委員会
境内にある三十三観音霊場。奥に見えるのは北海道最古といわれる仏牙舎利塔。
本堂の前にある門。こちらも老朽化がかなり進んでいる。
門にある徳川の紋。
門の裏側。
現在の国泰寺本堂。
赤い屋根と青い字がいい感じ。
境内入り口箇所に設置されている教育委員会設置の説明板の内容は次のとおり。
国泰寺跡
国指定史跡 昭和48年10月29日
国泰寺は、江戸時代後期、蝦夷奉行の願い出により、幕府が和人の定着・慰撫、蝦夷地の教化及び法務活動を行わせるために、文化元年(1804)に建立した蝦夷三官寺(様似の等澍院、有珠の善光寺、厚岸の国泰寺)のひとつで、第11代将軍徳川家斉の直願寺として臨済宗鎌倉五山派に属し、十町四方(約9.9ヘクタール)の風除林を加えて造営された。
現存する建物はほとんどが後代の改修を経ているが、よく江戸時代のたたずまいを伝えており、蝦夷地における特異な歴史的役割を果たした寺として重要なものである。
厚岸町教育委員会
- 2012年2月訪問。