墨堤通り一覧

旧墨堤と子育地蔵堂

 

墨堤通り

2010年12月26日撮影。まだ車の少ない墨堤通りの朝。

 

旧墨堤の道説明板

2010年12月26日撮影。

墨田区教育委員会設置の説明板の内容は以下の通り。

 

旧墨堤の道

所在地 墨田区東向島3丁目・堤通1丁目境

隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661〜73)。徳川将軍家の休憩所であった隅田川御殿(現堤通2丁目、都立東白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には八代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。

白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残りです。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で、特ににぎわいました。

関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2ヶ所だけとなっています。

平成21年3月

墨田区教育委員会

 

子育地蔵堂

2010年12月26日撮影。地蔵坂通り商店街と墨堤通りとの接点にある子育地蔵堂。

 

子育地蔵堂説明板

2010年12月26日撮影。

 

墨田区設置の説明板の内容は以下の通り。

 

 

子育地蔵堂

所在 墨田区東向島3丁目2番1号

この小堂に祭られている子育地蔵は、文化年間(1804〜1817)に隅田川の堤防修築工事の際、土中から発見されたと伝えられています。初は村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。

ところが、この地に古くから住む植木屋平作方の雇人夫婦が、ある日、田地で殺害されましたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人をお告げになり、たちまち犯人を捕えることができました。この奇跡に驚いた平作は、当所に地蔵を安置して供養を怠りませんでした。

その後、将軍家斉が当地に鷹狩に来て、平作方に小憩の際、地蔵の由来を聞いて感銘し、帰城の時にお参りしました。平作は、これを記念して小堂を建てて地蔵を安置したところ、多くの人々が参詣するようになりました。

このお堂の前の坂は明治44年、堤防修築の時にできたものですが、今も「地蔵坂」の名で知られています。

昭和62年3月

墨田区

 

 

正月準備の白鬚神社

2010年12月26日撮影。正月準備で忙しそうな白鬚神社境内。


墨堤通り沿い早朝散歩

墨堤通からスカイツリー

2010年8月26日撮影。早朝なのでさすがに車の通りは少ない。スカイツリーへと続いているかのように見える墨堤通り。

 

隅田川神社参道

2010年8月26日撮影。墨堤通りと東白鬚公園との間には高層マンション(都営住宅)が連続しているが、その間を縫うように隅田川神社の鳥居と参道が続いている。奥に進むと隅田川神社。

 

榎本武揚の像

2010年8月26日撮影。榎本武揚と言えば、道南、函館でもよく耳にする歴史上の人物のひとり。晩年に向島で過ごしたというのは知らなかった。

 

以下は墨田区教育委員会設置の説明版の内容。

 

榎本武揚の像

所在 墨田区堤通2丁目26番3号 梅若公園内

武揚は、天保7年(1836)下谷(現台東区)の通称三味線堀に生まれました。天性聡明で学問を好み、昌平黌で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学びました。幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、オランダ人教官より洋式海軍技術・蒸気機関・機械製造等を習得、当時未知の学問であった化学までも学びました。さらに文久2年(1862)にオランダに留学、国際法規も修めました。帰国後、軍艦奉行や海軍副総裁へと昇進、幕府海軍の柱となります。幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館の五稜郭に拠り、薩長軍と戦いますが敗れて捕えられます。しかし、明治新政府内に彼の人物を惜しむ声が強く、明治5年許されました。当時難問とされた樺太帰属問題解決のため、海軍中将・特命全権公使としてペトログラードに派遣され、みごと交渉に成功します。その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功により子爵を授けられました。晩年は向島に住み、墨堤を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同41年に73歳で死去しました。隅田公園内の「墨堤植桜之碑」や多門寺の「毘沙門天」の標石等、武揚の筆跡が区内の所々に残されています。

平成18年3月   墨田区教育委員会


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