墨田区一覧

東向島駅前「東向島粋いき通り(博物館通り)」

昨年まで住んでいた墨田区東向島エリア。ちょうど1年ぶりの訪問。

1年なので当然大きな変化はなかった。それでも、新しいコンビニが出来ていたり、建設中だったマンションやアパートが建っていたり、と小さな変化があった。お世話になった商店街の店々も忙しそうに開店の準備をしている様子などを見ると、何やらほっとする気持ちに。

やはり街は生き物。日々変化。

 


正福寺の板碑と首塚地蔵尊

墨田区墨田にある真言宗の寺、月光山正福寺。開基は、慶長7年(1602年)とされる。

境内にある板碑は、墨田区登録文化財である。

境内のそとには、「首塚地蔵尊」と呼ばれる堂がある。由緒を読むとなかなかインパクトの強いエピソード(諸説あるうちの一つだが)が書かれているが、首からの上の病に効くとされ参拝者は多いらしい。現に、私の前を歩いていた女性は、堂の前で立ち止まり参拝していた。

正福寺の板碑 

2012年1月21日撮影。正福寺境内の板碑。墨田区教育委員会による説明は以下のとおり。

 

<墨田区登録文化財>

正福寺の板碑

所在 墨田2丁目6番 正福寺内

板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)・年号・銘等を薬研彫で刻みます。

板碑の起源は碑伝や五輪塔ともいわれますが、はっきりしません。中世の武士たちが供養のたえに建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には3基の板碑があります。(登録は2基)

宝治2年(1248)銘の板碑は、高さ116cm・幅46cm・厚さ10cmで区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊申三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。

登録されているもう1基は碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当寺に移されたといわれます。なお、区内には約30基の板碑があります。

 成14年3月

墨田区教育委員会

 

首塚地蔵尊

2012年1月21日撮影。首塚地蔵尊。

正福寺による首塚地蔵尊の説明は以下のとおり。 

 

首塚地蔵尊

地蔵菩薩 ご縁日 毎月4日

ご真言 オン カカカ ビサンマエイ ソワカ

 

天保4年(1833年)洪水の危険をふせぐための隅田川橋場附近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。

関係者は当山第16世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。

この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。

この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。

 

このお堂は、真言宗中興の祖興教大師(覚鑁上人)850年御遠忌(平成4年12月12日)記念事業の一環として、平成2年8月壇信徒一同により再建、奉納されたものである。

 

月光山正福寺


圓徳寺の庚申塔

東武鐘ヶ淵駅から墨堤通り方向へ進むと右手にあるお寺が圓徳寺。

境内には墨田区の登録文化財「庚申塔」がある。

 

圓徳寺の庚申塔

2011年12月29日撮影。境内入り口。

 

圓徳寺の庚申塔

2011年12月29日撮影。庚申塔と説明板。説明板の内容は次のとおり。 

 

<墨田区登録文化財>

庚申塔(寛文12年11月1日銘)

所在 墨田区墨田5丁目42番17号 圓徳寺内

十干十二支で庚申は60日に一度めぐってくる。この日の夕に斎戒沐浴して供養し、一夜を寝ずに明かす行事を「庚申待」という。人の身中に潜む三尸という虫がこの夜の眠っている間に抜け出し、人界での諸悪を天帝に告げるたえ、人は寿命を縮めるとされている。

近隣の者たちが供物(馳走)を持ち寄り、庚申の掛物を礼拝し、日ごろの話題に談笑したりして夜明けを待つ。また、この夜は村人にとっては数少ない楽しみのひとつでもあった。

この庚申塔は区内でもかなり大きなものであり、舟型光背・蓮華座に阿弥陀尊像を配し、台座にも三猿を掘出していて、優品に属する。銘を「寛文十二壬子歳十一月一日 奉造立庚申待供養現当二世安楽所 敬白」とし、主尊の両側には旧隅田村の有力者名が27名も彫られており、多数の村人たちが結集し、信心の証しとして造立したことがわかる。

  平成6年3月

墨田区

 


レストランかたやま

下町のレストランかたやま。白鬚橋病院を過ぎて墨堤通り沿いにある人気店。

おいしいステーキが手頃な価格で食べられるため、家族連れや近所のおじさん、おばさんで賑わっている。

 

かたやま

お店の隣の建物が待合室となっているのだが、壁には店を訪れた著名人のサインがびっしりと貼られている。


白鬚橋下

白鬚橋近辺は墨田区、江東区、荒川区が交差する珍しいスポットである。

向島側から橋を渡ったところに、対鷗荘と呼ばれた三条実美の別邸があったとのこと。

また、橋が架かるまでこの辺りで活躍した渡しは「白鬚の渡し」又は「隅田川の渡し」として、有名だったようだ。

 

白鬚橋下

2011年11月13日撮影。荒川区教育委員会の解説は以下のとおり。

 

対鷗荘(たいおうそう)跡

対鷗荘は白鬚橋西詰の地に明治6年(1873)、明治の元勲三条実美の別邸として建築された。

   いそがしき つとめのひまを

   ぬすみ来て 橋場の里の

   月をみるかな

三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。

橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。

荒川区教育委員会

 

 

これより東へ約20メートル

橋場の渡し

対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。

『江戸名所図会』によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。

大正3年(1914)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。

荒川区教育委員会

 

 


木母寺と梅若塚

東白鬚公園内の木母寺には梅若塚を始め、由緒ある碑がたくさん残されている。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。「隅田川旧跡 梅若塚」の石標。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。三遊塚。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書とのこと。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。天下之糸平の碑。都内で最も大きい碑。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。その他たくさんの碑が並ぶ。

 

境内の諸碑についての墨田区教育委員会の説明は以下のとおり。

 

境内の諸碑

所在 墨田区堤通2丁目16番1号 木母寺内

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など30基の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。

◆華笠文京翁碑

幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に飛んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。

◆天下之糸平の碑

高さ5メートル、幅3メートルを越す都内一の句碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

◆三遊塚

三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書です。

◆題隅田堤桜花(隅田堤桜花に題す)の詩碑

亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は9歳の少年、清水孝の書です。文政12年建立。

 平成8年3月

墨田区教育委員会

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。ごつごつとした岩の固まりのようなものが梅若塚とのこと。

 

梅若塚の沿革

「たづね来て問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。

明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(同22年)佛式に復帰しました。

現在地に遷座したのは昭和51年で旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

 


桜橋

隅田公園において、墨田区と台東区を結ぶ歩行者専用の桜橋。両区は昭和52年に姉妹区協定を締結し、その記念事業として昭和60年に完成した。

桜橋

2011年9月23日撮影。墨田区側から台東区側を見る。

 

桜橋 

2011年9月23日撮影。逆に墨田区側を見る。

 

桜橋

2011年9月23日撮影。桜橋上からの隅田川。

桜橋手前の散策解説板の内容は次のとおり。

 

隅田公園 散策解説板5

桜橋とポトマック帰りの桜

ワシントンからの贈り物

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac – as a present from Washington D.C.

台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和52年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和60年に桜橋が完成しました。

この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。

約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

In 1977 (Showa 52), Taito-city and Sumida-city made a siter-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park was planned and “Sakura Bridge” was completed.

In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D.C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D.C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D.C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C.

After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.

 

場所:http://g.co/maps/a9s9m

 


墨堤常夜燈

隅田公園内、隅田川沿いを進むと古めかしい燈籠が現れる。現在は隅田公園内にある牛嶋神社が、この燈籠の付近にあった明治初期に建立されたものらしい。

牛嶋神社は移転したものの、この常夜燈は重要な目印としての役割があったため、この地に残ったとのこと。

墨堤常夜燈

2011年9月23日撮影。

 

墨堤常夜燈 

2011年9月23日撮影。基礎部分に刻まれた「本所総鎮守」の文字。

 

墨堤常夜燈

2011年9月23日撮影。墨田区教育委員会による説明は次のとおり。

 

<墨田区登録文化財>

墨堤常夜燈

所在地 墨田区向島5丁目1番 隅田公園内

この常夜燈は、総高465センチメートルにも及び、宝珠部分には牛嶋神社の社紋が彫刻されています。口伝によると牛嶋神社がまだこの付近にあった明治4年(1871)頃、土手から神社へ下る坂の入口に建立されたようです。氏子たちが奉納した壬亜の燈籠としての役割に加えて、隅田川を往来する川舟のための灯台を兼ねており、墨堤の燈明として航行の安全を守っていました。

常夜燈の基礎部分には「本所総鎮守」と刻まれているだけではなく、対岸も含めた29軒の料亭と50名を超える近隣の奉納者名が刻まれています。その中には、向島の料亭として有名だった植半、八百松、武蔵屋などが、また言問團子の創始者外山新七や長命寺の桜もちの経営者山本新六の名を見ることができます。

花見客はこの常夜燈を目印に足を運び、墨堤の桜を楽しみました。また、桜と常夜燈の組み合わせは、江戸・明治の風情を思い起こさせるものとして、多くの画家や写真家が題材とした向島を代表するシンボルでした。

牛嶋神社自体は、関東大震災を契機に昭和7年(1932)に隅田公園の南(向島2丁目5番17号)に移動しましたが、墨堤常夜燈はこの地に残されました。

 平成20年3月

墨田区教育委員会

 

隅田公園 散策解説板6

常夜燈と渡し舟

隅田川の水運と向島風情の象徴

Joyato and ferryboats – water transportation of Sumida River and the symbol of Mukojima taste

この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。

この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。

The place where put this “Joyato ( night-light )” was precincts of Ushijima shrine once. Although Ushijima shrine was relocated to its present location with construction of Sumida Park, only this “Joyato” was left behind here becouse it was an important mark in “Bokutei”.

“Takeya-no-watashi ( ferryboat )” was set up this neighborhood once, and many visitors were carried to sightseeing areas. They enjoyed cherry blossom viewing at spring, fireworks at summer, and Karyukai ( the world of geisha girls, women with refined manners ) in Mukojima in Meiji era for instance.

This “Joyato” was very important role then because lighting technologies had not developed yet. In Meiji era, many painters preferred to express the taste of Mukojima by painting the matching of cherry blossoms in “Bokutei” and this “Joyato”. It remains its figure as the suitable symbol of Mukojima in those days.

 

場所:http://g.co/maps/mx4jc


隅田公園少年野球場

隅田公園手前にある少年野球場。日本初の少年野球場であるとのこと。王貞治氏を育てた球場でもあるらしい。

この日も少年野球の試合が行われていた。

隅田公園少年野球場 

2011年9月23日撮影。

 

隅田公園少年野球場 

2011年9月23日撮影。碑の内容は次のとおり。

 

隅田公園少年野球場

この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。

以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。

 昭和61年3月

墨田区教育委員会

 

場所:http://g.co/maps/njj5g

 


野口雨情記念碑

野口雨情は大正から昭和初期にかけて活躍した詩人。隅田公園入り口の小公園に詩碑がある。

野口雨情記念碑

2011年9月23日撮影。墨田区による説明立て札の内容は次のとおり。 

 

立札

都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る

ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唄われたものである。

東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。

 昭和63年10月9日

墨田区

 

場所:http://g.co/maps/vg2uu


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