多聞寺一覧

多聞寺境内の六地蔵坐像

多聞寺境内には六体並んだ地蔵がある。隅田村における地蔵講の活動を知ることができる貴重な資料だそうだ。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。

墨田区設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

<墨田区登録文化財>

六地蔵坐像

所在 墨田区墨田5丁目31番13号 多聞寺内

この六地蔵像は総高約150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持物不明の坐像が2体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。

欠損や修復の跡がみられますが、僧覚誉理慶(利慶)が願主となり、7年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。

隅田村地蔵講中の数年間にわたる作業行為を知り得る、貴重な資料といえます。

六地蔵の製作年代は右から、正徳3年(1713)2月吉祥日、同4年8月吉祥日、同3年8月吉祥日、同2年2月吉祥日、享保元年(1716)9月吉祥日、同3年10月日と刻まれています。

平成4年3月

墨田区

 


多聞寺の狸塚

多聞寺境内に入ると、狸の像があちこちに置かれていることに気付かされる。江戸時代より少し前、この地には妖怪狸がいて、村人に悪さをしていたとか。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。多聞寺境内の狸の像。かなり古いものらしく、全身に苔が生えている。一見、狐のようにも見えるが、腹回りの豊かさから狸ということが、なんとなくわかる。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。狸塚。由来がとても面白い。由来に登場する毒蛇はマムシのことだろうか?

 

由来が書かれた説明板の内容は以下のとおり。

 

狸塚のいわれ

むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また、「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海和尚と村人たちは、人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に、天までとどくような大入道があらわれて、

「おい、ここはわしのものじゃ、さっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ。」 

と、おどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。

「おまえの悪行は、いつかおまえをほろぼすことになるぞ。」

次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。

 


多聞寺の境内と本堂

隅田川七福神の一つとして毘沙門天を祀る多聞寺。本尊の毘沙門天像は空海の作と伝わっているとのこと。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。多聞寺正面入り口石柱。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。正面駐車場と山門。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。山門から境内へ。左側には狸塚。右側には六地蔵。そして正面が本堂。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。本堂前から振り返っての山門。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。多聞寺本堂。

 

隅田川七福神コース案内板に記載されていた多聞寺の由緒は以下のとおり。

 

多聞寺 毘沙門天

多聞寺はその昔、墨田堤お外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。

毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。

 


多聞寺境内に残る戦争の跡

多聞寺境内には戦災の記憶を伝える記録が複数残されている。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。山門手前に植えられた長崎爆心地の楠。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。東京大空襲の爆撃で折れ曲がった浅草国際劇場の鉄骨。

 

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨

1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は”炎の夜”と化した。この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)

この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的”証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。

戦争の実相を伝える”証人たち”に静かに心を傾け、不殺生の誓いを新たにしましょう。

隅田山 多聞寺

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。空襲で焼かれた木とのこと。

 

戦災の証言者

パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための掘削により発見されました。

東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。

ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。

当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。

戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。

1992年10月18日 戦災の木を保存する会

Monument of World War Ⅱ

The monument, the burnt tree was discovered in 1-2-7 Nishinippori, Arakawa-ku ( former address 4-3420, 3421 Mikawashima ) where the construction of a new building had started, on August 12, 1991, a half century from the battle of Pearl Harbor, the 46th year from the end of World War Ⅱ.

There were 71 raids from April 18, 1942 to August 15, 1945.

Now the tree that is displayed in this place is the one that was burnt in the air raids from 11 p.m. April 13, 1945 to 2:22 a.m. April 14, 1945.

The bombs dropped were high quality bombs, 81.9t and incendiaries 2037.7t. The damaged area spread 139 places containing Nishinippori. This tree that was burnt in the war makes an appeal for precious life.

Now we should try to build a peaceful country forever under the peaceful constitution.

October 18, 1992

Sensai no ki wo hozonsuru kai

( The society to preserve the tree burnt in World War Ⅱ)


多聞寺の山門

隅田川七福神の一つ多聞寺。東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅と堀切駅の中間辺りに位置している。

周辺は下町風情の残る住宅街。境内はきれいに整備されている。

狸塚に係るエピソードなどは、現在の状況からは想像できないこの付近の当時の様子を示しており、興味深い。

立派な山門は、江戸時代中期の作とのこと。現存する墨田区内最古の建造物らしい。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。多聞寺の山門。江戸中期の作。墨田区内では最古の建造物。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。

 

多聞寺

2011年7月3日撮影。

 

墨田区教育委員会と多聞寺による山門の説明は以下のとおり。

 

<墨田区指定文化財>

多聞寺山門

所在地 墨田区墨田5丁目31番 多聞寺内

多聞寺の山門は江戸中期に造られた区内最古の建造物です。

切妻造の四脚門で、現在では珍しくなった茅葺の屋根を持ちます。全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も見られます。虹梁・木鼻に刻まれた線の太さや深さ、素朴な文様は18世紀を降らない建造を感じさせます。

慶安2年(1649)に建立された山門ですがその後焼失しました。過去帳には「享和三亥年二月酉ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裏、焼失四棟也、表門ハ不焼」とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和3年(1803)までには再建されていたことになります。

墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきました。こうした中で、多聞寺山門が現存することは、貴重であり、周辺の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物といえます。

平成17年3月

墨田区教育委員会

 

 

多聞寺の山門

山門中央の「隅田山」と記された山号額の裏に「明和九年」(1772年)と彫られており、現存する墨田区内最古の建造物として区登録有形文化財とされています。

屋根を支える本柱の前後に2本ずつの控柱をもつところから四足門または四脚門と呼ばれる形式の門です。一部には朱と思われる痕跡があり、建立当初は朱塗り瓦葺きであったことが察せられます。その後、享和3年(1803年)の火災、安政2年(1855年)の大地震などの被害を受け、後に茅葺にされたものと思われます。その後もこの門は、排仏毀釈、関東大震災、15年戦争などの天災と人災の歴史をくぐり抜け、娑婆(人間自身が作り出した苦しみの世界)の人々の営みを見据えてきました。

これからも、安楽を願う人々を見守ってくれるでしょう。

隅田山 多聞寺

 


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