当別一覧

寛文7年頃作とされるゑぞの絵図に記されている上磯地域

 函館市中央図書館デジタル資料館で公開されているゑぞの絵図は、寛文7年頃の作とされており、西暦だと1667年年頃となる。

 「亀田」と「キコ内」の間に「トウヘチ」「モヘチ」が見える。また、折り目で欠けているが「ヘケ」とあるのは「ヘケレチ」と推測される。

ゑぞの絵図

出展: 函館市中央図書館デジタル資料館>ゑぞの絵図


寛永正保頃とされる松前蝦夷図に記されている上磯地域

 函館市中央図書館デジタル資料館で公開されている松前蝦夷図は、寛永正保頃とされており、西暦だと1624年から1648年頃となる。

 上磯のあたりに「ヘケツレチ」「川モヘチ」「トウヘチ」と記されているのが見える。言わずもがな「ヘケツレチ」は、「ヘケッレチ」つまり「ヘキリチ(戸切地)」であり、「トウヘチ」は「トウベツ(当別)」であり、頭に「川」が付いているが「モヘチ」は「茂辺地」である。

松前蝦夷図

出展: 函館市中央図書館デジタル資料館>松前蝦夷図 寛永正保頃


『延叙歴検真図』と『北海道歴検図』

幕府の役人、目賀田守蔭がまとめた『延叙歴検真図』という鳥瞰図。全道、樺太までの調査結果が鳥瞰図として掲載されており、北斗市も有川村、矢不来、茂辺地村、當別村、三石村の記載があります。

明治4年に開拓使からの要請を受けて、『延叙歴検真図』を清書して提出したのが『北海道歴検図』らしいです。

※2016/12/25 アクセス。


『蝦夷地名考并里程記』のなかの上磯地名

上原熊次郎(文政7)『蝦夷地名考并里程記』に上磯(現北斗市)の地名も出てきており、アイヌ語を語源とする旨記載されています。諸説あるのでしょうが、アイヌ語源というのは理解しやすい気がします。

東京国立博物館デジタルライブラリーにて『蝦夷地名考并里程記』の画像データも公開されており、該当箇所は7ページ目となります。

『上磯町史 上巻』の読み下しによれば、

 当別:夷語トヲウンベツなり。沼の有る川と譯す。トツは沼の事。ウンとは生するの訓にて有と申事なり。此川の奥に沼有る故号くという。

茂辺地:夷語ムーベツなり。塞る川と譯す。ムーとは塞と申事。ベツは川なり。此川餲水亦は仕化の節、水口塞る故、地名になすと云う。

戸切地:夷語ベケリベツなり。あきらかなる川と譯す。ベケリとは明らかと申事。ベツは川なり。この川の流れ清き故、地名になすと云う。

この戸切地の項には、有川について「此村内(戸切地)東の方の枝流を有川といふは和語なるべし。則、戸切地川の枝川なり」とある。

久根別(ク子ベツ):夷語クン子ベツなり。則、濁川と譯す。クン子は黒い又濁るの訓にて、ベツは川なり。此川水常に濁り流るゝ故、地名になすと云ふ。

七重:夷語はナァナイなり。則多く渓間有と云ふ事。ナアとは幾重等もと申事。ナイは渓又は沢等と申事なり、此辺渓沢の多く在故、地名になすと云ふ。

『上磯町史 上巻』p.511

蝦夷地名考并里程記

蝦夷地名考并里程記

画像は、上記東京国立博物館デジタルライブラリーで公開されている『蝦夷地名考并里程記』(2016/12/21 アクセス)です。


『蝦夷島奇観』—當別(当別)村出土の土偶

江戸幕府の役人だった村上島之允(秦檍磨[note]秦檍丸と表記されている場合も見られる。読み方は、「はたあわぎまる」、「はた(はだ)あわきまろ」か? [/note])の『蝦夷島奇観』に、寛政10年春に当別村の氏神の祠の傍から土偶が出土した旨の記載有。

蝦夷島奇観 當別(当別)村出土の土偶

※画像出典:東京国立博物館

参考


当別の土偶〜その2

『蝦夷島奇観』はいくつもの写本があるらしく、当別の土偶に係るページについてデジタルアーカイブとして公開されているものはあまり多くない。先日の北大データベースと、北海道開拓記念館のサイトのもの(以下)しか発見できなかった。

ただ、『上磯町史 上巻』(p.164)に掲載されている土偶の図版は、北大、開拓記念館、いずれのものとも異なっていて、どこに所蔵されている写本なのかはわからない。市立函館博物館のデジタルアーカイブにて公開されているものかとも考えたが、この土偶のページはサイト上では見つけられなかった。

 

 

■出典 北海道開拓記念館>蝦夷島奇観(近夷地雑図部)(2014年3月26日アクセス)


当別の土偶

江戸幕府の役人であった村上島之丞(秦檍丸)による『蝦夷島奇観』は、約200年前の北海道で営まれていたアイヌの人々の生活や文化を知るうえで貴重な資料となっているが、そのなかに、当別で出土したとされる土偶について記載がある。

上記は北海道大学の北方資料データベースに掲載されている写本のデータだが、寛政10年春、當別村氏神の祠横から掘り出されたとある。顔にある細かな点は入れ墨を表しているものと考察されている。

写実的な頭部や胴体から、おそらく縄文時代後期〜晩期の土偶ではないかと推測されているが、確かに、同時期のものとされる函館市の国宝、中空土偶とも、なんとなく似ているように感ずる。

残念ながらこの土偶、その後どこにいってしまったのか不明らしい。

 

 

■出典 北海道大学北方関係資料総合目録>蝦夷奇観 / 村上嶋之允 (37 / 51 ページ)(2014年3月25日アクセス)