意富比神社一覧

2015初詣@意富比神社

意富比神社

今年一年の世界平和と地球環境の安寧を祈念すべく、意富比神社を参拝して参りました。どこの神社もそうですが、鳥居をくぐると、不思議と厳かな空気に切り替わるような気がいたします。社殿を取り囲む木々から落ちる雪もまた神秘的でありました。

意富比神社

境内には稲荷神社が祀られています。北斗市教育委員会の説明板によれば、もともと南大野にあったものを、明治19年に現在の場所に移転したもののようです。以下、当該説明板の内容です。

 

大野稲荷神社

意冨比神社境内にある「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」をまつる稲荷神社で、安政年間(1854〜60)に作成された『大野村絵図(北斗市指定文化財)』に、西鍛冶在所(現南大野)に稲荷と山神を祭る社祠がみられ、「境内880坪」と記載されている。
意富比神社の記録によると、明治19年(1886)、境内に稲荷神社を合祀したとあり、西鍛冶在所から移転したものである。昭和2年(1927)、冨谷千代さんが書いた綴り方「稲荷祭の日」に余興の様子が詳細に描写されている。
また、昭和18年ごろ、社殿前で写した一枚の集合写真が保存されており、神社関係者や村の主立った27人の面々が並んでいる。このことからも当時祭礼がかなり盛大だったことがうかがえる。

平成25年3月 北斗市教育委員会

 


北斗市手づくり市@意富比神社

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北斗市本町の意富比神社を会場として開催されている手づくり市を見学。たくさんの客で賑わっていたが、特に子供連れ客の多さに驚かされる。これからの展開にも大いに期待。次回の開催は、9月13日(土)及び14日(日)9:00〜12:00の予定。

 

○北斗市手づくり市実行委員会:http://profile.ameba.jp/tedukuri-ichi/


2014年、初詣は意富比神社にて

本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年12月に転居し、今年から、初詣は北斗市本町の意富比神社に参ることとなった。北斗市内でもかなり古い神社であり、旧大野地区では中核的な社となっている。

この「意富比」は「おおひ」と読むのだが、おそらく「大日」に因むのであろうと推測されることと『日本三代実録』にも登場する「下総国意富比神」と関係づけたのだろうと推測されるが、詳細な名称の由来はよくわからない。


意富比神社

旧大野町の中心にある意富比神社。現在の北斗市総合分庁舎の向かい側。

幕末の動乱においても激戦の地となった。

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。この巨木も由緒あるもの。北海道設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

意富比神社環境緑地保護地区

この地区は、イチイ・スギ・カツラ等の大径木からなる面積約0.5ヘクタールの境内林です。

地区内には、大野町開拓の歴史を物語る推定樹齢360余年のイチイがあり、昭和47年3月に道条例に基づく記念保護樹木に指定されている等、市街地周辺の環境緑地として維持することが必要な樹林地として、住民に親しまれています。

昭和63年5月26日指定

北海道

 

意富比神社の水松記念保護樹木

大野町には、江戸時代初期の頃から人々が住みはじめ、寛文9年(1669)の頃、既に家が20軒ほどあったとされています。

このイチイはその頃植えられたもので、大野町の350年の歴史を物語る古木として指定されました。

昭和47年3月25日指定

北海道

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。北斗市設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

箱館戦争と意富比神社の戦い

明治元年(1868)旧10月20日旧幕府軍は、森町(鷲ノ木)に上陸し、本隊は箱館(現函館)に向かい、分隊は峠下コースを進軍し、10月24日午前7時頃、風雪の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のため向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊を阻もうとする官軍藩兵とが市渡で遭遇戦になり意富比神社境内を中心に戦闘になり白兵戦になりました。

しかし、作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃し、約1時間の戦いであった。この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたってもえあがり、強い北風にあおられて十数件が焼失しました。

村民は銃声や火災に逃げまどった。両軍の死傷者はかなりの数であっただろう。官軍の墓だけでも10以上になっている。

なお、意富比神社のイチイの木にも弾痕がある。

平成4年10月

大野町教育委員会

平成18年2月1日より北斗市教育委員会

 

意富比神社

2007年3月11日撮影。この忠魂碑に係る説明板の内容は以下のとおり。

 

意富比神社の忠魂碑

日露戦争後、各地に戦死者の慰霊碑が建てられた。郷土でも明治44年(1911)11月、在郷軍人会が村民有志の協力を得て、向野の観音山に忠魂碑を建立した。

観音山は、それ以前から馬頭観音祭に併せて消防組が花相撲を行うなど、村民集いの場であったが、忠魂碑が建ってからは慰霊祭も行われ、さらに賑わいが増したという。

忠魂碑は昭和42年(1967)、遺族会が参拝しやすい場所に移そうと会員から資金を集め、観音山から意富比神社境内へ移設された。基礎の台は新設され、日露戦争に太平洋戦争までの戦没者を加え、あらためて字別に224名の戦没者の姓名碑を両側に並立した。

太平洋戦争では、特に中国、南方方面ではおびただしい数の人が犠牲となり、激しい沖縄での戦いや函館湾の連絡船空襲などで、郷土からも多くの戦死者を出した。

碑前で行われる慰霊祭は、かつて「忠魂祭」や「戦没者慰霊祭」と呼ばれていたが、現在は「平和祈念祭」と名を変え、遺族会が主催して毎年6月20日、戦死者の冥福を祈るとともに、平和を願ってしめやかに行われている。

平成18年3月吉日

北斗市教育委員会

 


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