森町一覧

森駅から特急北斗にて札幌へ

特急北斗

札幌行き特急北斗乗車の際には、森駅を利用しています。乗車時間が短くすみ、駐車場も無料ですので。特急は、揺れが少ないためスーパーの付かない方の北斗を好みます。

 

 


駒ヶ岳洋菓子工房

駒ヶ岳洋菓子工房

駒ヶ岳洋菓子工房

駒ヶ岳洋菓子工房

駒ヶ岳の麓、本当に麓にある駒ヶ岳洋菓子工房に行ってまいりました。隠れ家的な場所ながら、たくさんの客で賑わっており、店内から外にはみ出るほどの行列が出来ていました。

小生は、今回ソフトクリームのみの購入でしたが、バニラと桃との2種類で、なおかつ大中小の3サイズがあります。中サイズでもなかなかのボリュームです。牛乳が濃いためか、ネットリではなくサクッとした食感ですが、味はきわめて濃厚でした。次回は大きなショートケーキ狙いで訪問したいと思います。

 

  • 駒ヶ岳洋菓子工房
    住所: 〒049-2141 北海道茅部郡森町駒ケ岳345−3
    電話:01374-5-2745

 

 




東蝦夷地南部藩砂原陣屋跡

2007年訪問の森町砂原の南部藩砂原陣屋跡。

今も土塁の跡が残されている。

 

南部藩陣屋跡

2007年3月3日撮影。

 

南部藩陣屋跡

2007年3月3日撮影。

 

南部藩陣屋跡

2007年3月3日撮影。

 

敷地内には説明板が設置されている。2007年当時2種類の説明板があり、内容はほぼ同一。

記載されていた内容は以下のとおり。

 

東蝦夷地南部藩砂原陣屋跡<国指定史跡>

昭和49年8月22日指定

所在地 四軒町

設置年月日 安政三年

幕府は安政2年4月(1855)仙台、秋田、南部、津軽、及松前の5藩に、蝦夷地警衛の分担を命じた。

南部藩は箱館表出崎の警衛を主として、恵山岬から東蝦夷地幌別まで、一帯の海岸を持場として、箱館谷地頭の北方に元陣屋をおき、砂原分屯所(南部陣屋)は、安政3年には、四軒町にあり、兵隊約50名、砂原は市中と神社脇や駒ヶ岳のふもとに、小屯(見張所)をおいた。

旧砂原町四軒町に、東西37間(66.6m)南北約33間(59.4m)の方形に、周囲の土塁の高さ、約1丈(3m)である。

 

 

蝦夷地南部藩砂原陣屋跡(国指定史跡)

Sawara-territory of Nanbu-domain in East Ezo ( Hokkaido ) ( National Historic sight )

この陣屋跡は、幕府の命により、南部藩が北辺警備のために、安政3年(1856年)10月より翌1月にかけて築造したといわれている、南部藩室蘭陣屋の砂原分屯所です。

明治元年(1868年)砂原陣屋(分屯所)内の家屋等を壊して引揚げるまで、常に約30名の藩兵が駐屯していたといわれています。

広さは、東西約37間(66.6m)、南北約33間(59.4m)の方形に、周囲の土塁の高さ、約1丈(3m)と記録されています。

Years ago , there was a fort in the Sawara-territory built by the Nanbu-domain under order of the Shogonate. The construction lasted from October 1856 through January 1857. Upon completion , it spanned 66.6 m from East to West , 59.4 m from North to South and 3 m in height. The Sawara-territory fort served as a branch to a fort already existing in Muroran city. Thirty people from the Nanbu-domain stayed at the Sawara-territory fort until 1868 when all buildings were ordered destroyed.

森町

 


茅部の鯡供養塔

森町、石谷駅前にある鰊供養塔。

宝暦7年、豊漁となった鰊を埋却した際に建てられた鰊供養塔。

2007年の訪問当時、写真のとおり風雪から塔を保護するためと思われるが、ガラスの展示室に納められていた。

 

茅部の鰊供養塔

2007年3月3日撮影。道有形文化財指定を記す碑。

 

茅部の鰊供養塔

2007年3月3日撮影。

森町設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

北海道指定有形文化財 茅部の鯡供養塔

一、建立 宝暦7年5月(西暦1757年)

二、碑文

(表面)

宝暦七丁斗天

〓南無阿弥陀仏

五月吉祥日

鯡供養塔

(裏面)

漁者 亀田家中

同断 茅部衆中 願主箱館 佐藤彦左衛門

同断 箱館衆中

同断 村邑衆中

三、由来

宝暦年間の東蝦夷地茅部場所は、鰊の豊漁地として有名になった。地元茅部漁民の外に、箱館・亀田・上磯等より多数の入稼出漁者が来て、沿岸一帯の鰊漁業は大へん盛況となり、特に宝暦7年の春鰊は大豊漁で、浜辺は鰊の山を築いた。

当時鰊は、乾製食料以外鰊搾粕の行われない頃であったから、この大漁に当り、漁業者合議の上土中に埋めて鰊の供養塔を建て、慰霊法要をしたのである。

後年尚この地方は東部鰊の盛漁地として名を成したが、明治以後次第に漁獲が減少し往時の面影は今はないが、この塔の存在は本道開拓漁業史上最も重要な鰊のみの供養塔であることから、本道有形文化財として世上の関心が高まり、昭和5年6月22日史跡保存法により仮指定となり、更に昭和38年12月24日北海道有形文化財の指定を受け、永久保存管理されることとなった。

昭和39年10月1日

管理責任者 森町

 


榎本軍鷲ノ木上陸地跡

幕末、榎本武揚率いる艦隊が上陸したのが鷲の木村。現在の森町鷲ノ木。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

2007年3月3日撮影。とても静かな場所。箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑が立つ。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

2007年3月3日撮影。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

2007年3月3日撮影。森町教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

榎本軍鷲ノ木上陸地跡

明治元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったといわれる。

榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天・蟠龍・長鯨・神速・鳳凰・回春・大江)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら2千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。

当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。

21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえていた官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯ノ崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。

こうして、明治2年5月の、箱館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。

今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります。

平成2年7月30日

森町教育委員会