浅草一覧

浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その4〜

女性の守り神とされる淡島明神を祀った淡島堂。

淡島堂

2011年8月7日撮影。

淡島堂 

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

淡島堂(あわしまどう)

台東区浅草2丁目3番 浅草寺

淡島堂は、元禄年間(1688〜1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。

淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行われ、女性の参詣人が群衆する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。

 平成8年3月

台東区教育委員会

AWASIMA-DO

Awasima-do was built in the late 17th century to worship a god called Sukunahikonona-mikoto who is enshrined at Kada shrine in Wakayama prefecture. This god is famous as a guardian of women. Especially during “needle memorials” when women express gratitude by bringing used sewing needles and sticking them into Tofu (bean curd), the shrine attracts a lot of people.

 

戦時中、この桶に本尊を納め戦火から守ったとのこと。

 天水桶

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明は次のとおり。

 

天水桶

太平洋戦争が激しくなってきた、昭和18年(1943)11月18日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音さまをお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに納めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。

戦後の昭和22年(1947)3月7日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。

明和7年(1770)造立。

金龍山 浅草寺

 

この灯籠は、造立年代は不明ながら、「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名だったとのこと。

 胎内くぐりの灯籠

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明は次のとおり。

 

胎内くぐりの灯籠

この石灯籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、この灯籠の下をくぐることで、子供の虫封じや疱瘡のおまじないとなるとされている。

お子様をお連れでご参拝の折には、お子様にくぐらせてみてはいかがでしょうか。

造立年代は不明。

金龍山 浅草寺

 

一つだけに絞ってお願いするとかなうと言われる「一言不動尊」。享保10年(1725)の造立とのこと。

 一言不動尊

2011年8月7日撮影。

 

聖観音菩薩像。尾張国の孝山義道発願により、享保5年(1720)に建立されたと言われる銅像。

 聖観音菩薩像

2011年8月7日撮影。

 

江戸前期、承応3年(1654)に造立された阿弥陀如来像。この像については、文化10年(1813)編纂の『浅草寺志』にも記載されているとのこと。

 阿弥陀如来像

2011年8月7日撮影。

 

有名なかき氷店の前にある二尊仏。貞享4年(1687)の造立。

二尊仏 

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

二尊仏(浅草寺)

台東区浅草2丁目3番 浅草寺

「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観音(右)、勢至(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36メートル、蓮台を含めれば4.54メートルにおよぶ。基壇の組石は、長さ約12メートル、幅6.21メートル、高さ1.5メートルとなっている。

連弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛。かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享4年(1687)8月に造立した。

江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町の太田久衛門正儀の作。

安永6年(1777)2月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。

 平成10年3月

台東区教育委員会

TWO BUDDHAS

The two statues are: Bodhisattva Avalokiteshvara on the right and Bodhisattva Seshi on the left. They are both 2.36m in height. In 1687, Takase Zenbee from Tatebayashi, ( present day Gunma prefecture ) made these statues to repay the debt of gratitude to the rice wholesaler family who helped him, the Avalokiteshivara for the father and the Seishi for the son.

 

二尊仏と背中合わせに奉安されている地蔵菩薩像と阿弥陀如来像。右側は寛文11年(1672)造立の阿弥陀如来像、中央は享保11年(1726)造立の地蔵菩薩像、左側は延宝5年(1677)造立の阿弥陀如来像。

 地蔵菩薩像と阿弥陀如来像

2011年8月7日撮影。

 

弁天堂の手前にも芭蕉の句碑がある。寛政8年(1796)に建立されたもの。

 芭蕉句碑

2011年8月7日撮影。浅草観光連盟による句碑の説明は次のとおり。

 

松尾芭蕉の句碑

くわんをんの

 いらか見やりつ

  花の雲  はせを

俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。

芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日、大坂の旅舎で51年の生涯を閉じました。

この句碑は寛政8年(1796)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。

八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。

奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』という季語が詠みこまれております。

 平成2年4月吉日

浅草観光連盟

 

浅草寺手前に丘になった場所がある。その上にあるのが弁天堂。関東三弁天の一つ。弁天堂手前の鐘は「時の鐘」として広く知られている。

時の鐘 

2011年8月7日撮影。時の鐘。

 弁天堂

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明は次のとおり。

 

弁天堂

弁天山と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和58年に再建されたもの。

ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。

境内の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)5代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か浅草か』で有名。現在は、毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。

弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。

金龍山 浅草寺

Bentendo Hall

Bentendo Hall was reconstructed in 1983 on the small hill called “Benten-yama”. The principal image of this temple has white hair. Therefore we call it “Rounyo-Benzaiten”. (“Rounyo” means an old woman and “Benzaiten”, the goddess of music, art and wealth, is the name of the image.) This statue is one of the Three famous Benzaiten around the Kanto district. In the medieval period Hojo, a great daimyo in Odawara, had faith in this statue.

The bell in the belfry has been known as the hour bess casted in bronze by Tokugawa shogunate in 1692, and also famous for a haiku by Matsuo Basyo (1644-94). Nowadays, a priest of Senso-ji strikes at six oclock every morning.

 


浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その3〜

江戸時代前期に活躍した歌人戸田茂睡の墓。

戸田茂睡の墓

2011年8月7日撮影。都教委設置の説明板の内容は次のとおり。

 

都旧跡 戸田茂睡墓

所在 台東区浅草2丁目7番31号 浅草寺奥山庭苑内

指定 大正8年10月

元禄時代の歌人。はじめは渡辺氏を称し、のち戸田茂睡に改めた。名は馮、後に恭光、通称は茂右衛門。露寒軒などと号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第六男として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。その後は那須黒羽で暮らし、のち本多政長に仕えて300石を給されていた。延宝年間の末致仕し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を著して和歌の制の無用を説き、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)4月14日、年78で歿した。「紫の一本」「御當代記」「隠家百首」「鳥の迹」などの作品がある。なお

  塵の世をいとふ心の積りては

   身の隠れかの山となるらん

とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。

昭和43年3月1日 建設

東京都教育委員会

 

 力くらべ大会で持ち上げられた石。どれもかなり重そうだが、昔の人達もかなりの力自慢がそろっていたらしい。

力石 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は次のとおり。

 

力石

力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。

正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。

金龍山 浅草寺

 

江戸前期、三匠と呼ばれた俳人、西山宗因・松尾芭蕉・榎本其角の句が刻まれている碑。

三匠句碑 

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

三匠句碑(さんしょうくひ)

台東区浅草2丁目3番浅草寺

ながむとて花にもいたし頸の骨   宗因

花の雲鐘は上野か浅草か   芭蕉

ゆく水や何にとどまるのりの味   其角

江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。

西山宗因(にしやまそういん) 慶長10年(1605)肥後(熊本県)の生まれ。後、大坂に住み談林の俳風を聞く。この句は『新古今集』にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。天和2年(1682)没。

松尾芭蕉(まつおばしょう) 正保元年(1644)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、『おくのほそ道』は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄7年(1694)大坂で没。

榎本其角(えのもときかく) 寛文元年(1661)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永4年(1707)の没。

碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年(1894)春の移築の由来が記されている。

平成8年3月

台東区教育委員会

 

明治期に慈善事業に尽力した瓜生岩子の銅像。

瓜生岩子女史銅像 

2011年8月7日撮影。

瓜生岩子女史銅像

2011年8月7日撮影。台東区教育委員会による説明は次のとおり。

 

瓜生岩子女史の銅像

台東区浅草2丁目7番

岩子は通称。正しくは”岩”という。文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生まれたが、9歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を務める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。

明治30年4月19日、福島で没す。享年69。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。

平成8年7月

台東区教育委員会

BRONZE STATUE OF URYU IWAKO

Uryu Iwako was born in Kitakata, Fukushima prefecture on February 15, 1829. Iwako was her popular name, and her real name was Iwa. At the age of nine, she lost her father, and her mother went back to her parents’ home together with Iwa. When she was 14, she was entrusted to her aunt, and was educated by her uncle-in-law, who was a doctor in the Aizu clan.

After the Meiji Restoration, she exerted efforts for the education of young girls in the Aizu clan and also established the Fukushima Relief Facility for the assistance to the poor and orphans. She also founded the midwifery research institute and the Saisei Hospital in Kitakata, thereby promoting social work. She died in Fukushima on April 19, 1897. To praise the good conduct of Iwa, who devoted her whole life to charitable work, this bronze statue of her was erected here in April 1901.

 


浅草寺境内の諸碑・旧跡〜その1〜

浅草寺境内にはたくさんの碑や名所が残されており、ほとんどに浅草寺による説明板が設置されている。以下、目に付いたものを紹介させていただく。

本堂に向かって左側に建てられた大きな石柱。「迷子しるべ石」といい、迷子が出たときにそれを知らせる役目を負っていたらしい。それ以外にも貼り紙による情報交換に活用されていたとのことで、江戸の人通りの多いところに建てられたものの一つが、ここ浅草寺に残るものである。

迷子しるべ石

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

迷子しるべ石

昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。

石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。

安政7年(1860)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和20年の空襲で倒壊したため、昭和32年に再建された。

金龍山 浅草寺

 

鳩ポッポの歌碑。境内で鳩と戯れる子どもたちの姿を元にして明治34年にできた童謡「鳩ポッポ」。作詞は東くめ、作曲は滝廉太郎である。この歌碑は、昭和37年(1962)に建立されたものである。

鳩ポッポの歌碑

2011年8月7日撮影。

 

江戸時代の有名な石工大窪世祥によるものと思われる「正観世音菩薩碑」。

正観世音菩薩碑

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

正観世音菩薩碑

「正観世音菩薩」と碑の正面に刻まれている。当寺には観音さまを表した金石が多く奉安されているが、その中でもひときわ大きい碑である。

この石碑の銘文は長年の風雪により摩滅が進んでいるが、「文」や「窪世」とわかる所が残されていることから、江戸時代の有名な石工の大窪世祥が、文化・文政年間(1804〜29)頃に文字を彫ったと思われる。

他にも世祥の金石は3基、境内に残されており、当寺にも関わりの深い人であった。江戸町人の信仰を載せた金石が運ばれ、活気付く境内の様子が目に浮かぶようである。

南無観世音菩薩

金龍山 浅草寺

 

本堂向かって左側に配置された阿弥陀如来像。元禄6年(1693)建立という、かなり古いものである。もともとは本堂裏にあったものを、平成6年にこの場所に移したとのこと。

阿弥陀如来像 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

阿弥陀如来像

阿弥陀如来さまは、極楽浄土にあって法を説き無量の光明と寿命をもって永遠の生命を与えてくださる仏さま。

この像は唐銅製で、阿弥陀三尊像として元禄6年(1693)に千人近い信徒によって建立された。もとは本堂裏にあったものを、平成6年にこの地に奉安した。総高7.5メートル。極楽往生の諸霊の頓証菩提を祈る。

金龍山 浅草寺

 

阿弥陀如来像隣の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」。宝暦11年(1761)建立、明治40年に再建されたもの。宝篋印塔とは、内部に「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔のこと。

宝篋印塔 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝暦11年(1761)、浅草寺信徒約千人によって建立され、明治40年(1907)に改修再建されたもの。唐銅製。

宝篋印塔とは、塔内に『宝篋印陀羅尼経』を納めた塔のことで、参拝諸人は計り知れない功徳を得るといわれる。

金龍山 浅草寺


五重塔@浅草寺

浅草寺本堂へ向かい宝蔵門を抜けたすぐ左手に五重塔がそびえる。昭和48年に再建された、赤が鮮やかな塔である。

浅草寺の五重塔、そもそもの始めは天慶5年(942)にまでさかのぼるとのこと。また、戦前までの塔は現在の位置とは反対側の、本堂向かって右側にあったらしい。

浅草寺の説明板によると塔内は非公開とのことであるが、浅草寺の公式サイトに五重塔内の写真がいくつか掲載されているのでご参照されたい。なお、スリランカから勧請した仏舎利の画像も掲載されている。

 

 

 

五重塔 

2011年8月7日撮影。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

五重塔

そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。

浅草寺五重塔は、天慶5年(942)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和20年3月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)

以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年に現在の五重塔を再建するに至った。

地上からの高さは約53メートルある。

(塔内非公開)

金龍山 浅草寺

The Five-storied Pagoda

This pagoda, founded in 942, was rebuilt by Tokugawa Iemitsu in 1648. It burned in 1945 during World War II and was reconstructed in 1973. On that occasion, memorial tablets of devout believers who had passed away were placed in the pagoda’s foundation, and a bone relic of the Buddha presented by Sri Lanka was placed in the topmost story of the pagoda.

 


宝蔵門(仁王門)@浅草寺

浅草寺といえば「雷門」が非常に有名だが、仲見世通りの先にある「宝蔵門」も見事である。門を比較するならば、むしろ宝蔵門の方が素晴らしい。

宝蔵門には「小舟町」と書かれた提灯が下げられており、両脇にはそれぞれ阿形、吽形の仁王像が配置されている。いずれも昭和39年の宝蔵門再建時に作られたものである。本堂に向かって右側が吽形で仏師の村岡久作氏によるもの。左側は阿形で仏師の錦戸新観氏によるものである。同じ仁王であっても作り手によって表情がまったく異なっている。阿形の仁王像の方がユーモラスな印象を受ける。

阿形、吽形については、説明板記載の英語訳がとても分かりやすい。阿形=”opened mouth style”、吽形=”closed mouth style”。

宝蔵門

 

2011年8月7日撮影。

宝蔵門 

2011年8月7日撮影。

宝蔵門

2011年8月7日撮影。宝蔵門とスカイツリー。台東区教育委員会による説明板の内容は以下のとおり。

 

宝蔵門

台東区浅草2丁目3番1号 浅草寺

宝蔵門は、大谷米太郎の寄進で、昭和39年に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。鉄筋コンクリート造で重層の楼門である。概観は旧山門と同様に、江戸時代初期の様式を基準に設計されている。高さ21.7メートル、間口21.1メートル、奥行は8.2メートルある。下層の正面左右には、錦戸新観、村岡久作の制作による、木造仁王像を安置している。

浅草寺山門の創建は、「浅草寺縁起」によると、天慶5年(942)、平公雅によると伝える。仁王像を安置していることから仁王門とも呼ばれる。その後、焼失と再建をくり返し、慶安2年(1649)に再建された山門は、入母屋造、本瓦葺の楼門で、昭和20年の空襲で焼失するまでその威容を誇っていた。

平成18年3月

台東区教育委員会

Hozo-mon

Hozo-mon Gate was built as a temple gate that also serves as storage of treasures for Senso-ji Temple. It was constructed in 1964 with donated money by Ohtani Yonetaro. The external appearance was designed in the style of the early Edo period. It is a ferroconcrete gate, 21.7m in height, 21.1m in width and 8.2m in depth. Two wooden Nio(Deva Kings) statues made by Nishikido Shinkan and Muraoka Kyusaku are installed on the left and right sides of the front on the lower level.

It is said that the gate was first built by Taira no Kimimasa in 942. Since the Nio statues were enshrined, it has also been known as Nio-mon(Deva gate.) After its creation, it has been burned down and rebuilt several times. The temple gate rebuilt in 1649 was a proud two-storied tower gate, which boasted a dignified appearance until it was burned down during air raids in 1945.

 

仁王像(吽形)

2011年8月7日撮影。 吽形の仁王像。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

仁王さま「吽形(うんぎょう)」

昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の村岡久作氏によって制作された。総高5.45メートル、重さ約1000キログラム、木曾檜造りである。

仁王さまのご縁日は8日。身体健全、災難厄除けの守護神であり、所持している金剛杵は、すべての煩悩を破る菩提心の象徴である。

この仁王さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。

金龍山 浅草寺

Ni-Ou(closed mouth style)

This “Ni-Ou(closed mouth style)” was chiseled by sculptor Muraoka Kyusaku in 1964. The statue made of cypress is 5.45 meters high and almost 1000 kilograms in weight. Being guardian deities for Senso-ji, they are set in the “Houzou-Mon”.

 

仁王像(阿形)

2011年8月7日撮影。阿形の仁王像。内容はほぼ同一だが、浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

仁王さま「阿形(あぎょう)」

昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の錦戸新観氏によって制作された。総高5.45メートル、重さ約1000キログラム、木曾檜造りである。

仁王さまのご縁日は8日。身体健全、災難厄除けの守護神であり、所持している金剛杵は、すべての煩悩を破る菩提心の象徴である。

この仁王さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。

金龍山 浅草寺

Ni-Ou(opened mouth style)

This “Ni-Ou(opened mouth style)” was chiseled by sculptor Nishikido Shinkan in 1964. The statue made of cypress is 5.45 meters high and almost 1000 kilograms in weight. Being guardian deities for Senso-ji, they are set in the “Houzou-Mon”.

 

大わらじ 

2011年8月8日撮影。宝蔵門に掛けられた大わらじ。浅草寺による説明板の内容は以下のとおり。

 

大わらじ

この大わらじは、山形県村山市の奉賛会によって奉納されている。延べ人員800人、一ヶ月をかけて制作されたものである。藁2500キログラムを要し、大変な労力が必要で、まさに信心の結晶といえる。昭和16年(1941)の奉納を最初に、宝蔵門再建後は、約10年に一度作られている。全長は4.5メートル。

わらじは、仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。また、健脚を祈ってこのわらじに触れていく人もいる。

金龍山 浅草寺

O-Waraji

This pair of huge traditional straw sandals called “O-Waraji” had been made by 800 citizens of Murayama City in a month and devoted to Senso-ji. O-Waraji is made of straw and 2500 kilograms in weight, 4.5 meters high.

They are the charm against evils because they are symbolic of the power of “Ni-Ou”. Wishing for being good walkers, many people will touch this “O-waraji”.


久米平内堂@浅草寺

浅草寺仁王門手前にある久米平内堂。江戸時代前期の武士久米平内を祀ったお堂である。江戸時代には縁結びの神となっている点興味深い。

お堂の前には緑色ののぼりが建てられており目立っている。お堂そのものはこぢんまりとしたもの。お堂の中は確認しなかった。

久米平内堂

2011年8月7日撮影。

久米平内堂

2011年8月7日撮影。以下、台東区教育委員会による説明板の内容。

 

久米平内堂

台東区浅草2丁目3番1号 浅草寺

久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり、実像は明らかではない。

平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修行し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ち込んだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人々に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。

その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。

平内堂は、昭和20年3月の戦災で焼失した。現在のお堂は同53年10月に浅草寺開創1350年記念として再建されたものである。

平成18年3月

台東区教育委員会

Kume-no-Heinai-do

Kume no Heinai was a samurai in the early Edo period ( 17th century ) ; he is said to have passed away in 1683, but there are many stories about his life and not many facts are known for certain.

According to oral tradition, Heinai excelled in Kenjutsu, the martial art of sword fighting, and he killed many people over the years. Later in his life, he is said to have lived in the Kongo-in Temple in Senso-ji Temple, where he devoted himself to Zen Buddhism and held religious services in honor of the souls of the people he killed.

It is said that, just before his death, he ordered his followers to carve his figure on a stone and bury it near Nio-mon ( Deva gate ) , one of the busy districts of the city. He wanted his statue be stepped on by as many people as possible in order to expiate the crimes he had committed in life. Afterward, the stone statue was eventually stored in this temple.

From the middle of the Edo period, this temple was worshipped by the general public as a deity of marriage.

Kume-no-Heinai-do was burned down during the ravages of World War II in March 1945. The current temple was rebuilt in October 1978.