煉瓦一覧

茂辺地と煉瓦〜その3

先日も取り上げた『開拓使事業報告第三編』。国立国会図書館ウェブサイトで公開されており、茂辺地の煉瓦製造に係る箇所を以下のとおり紹介させて頂く。なお、概ね現在の字体で入力したが誤りについてご指摘いただければ幸甚(表の数値については手間を省いてアラビア数字とした。)。やはり開拓使側が「一定の成果」を強調しているような印象を受けるのは誤っているのだろうか。ちなみに『上磯町史 下巻』p.294に記載の『開拓使事業報告第三巻』とは『開拓使事業報告第三編』の誤り。

茂辺地の煉瓦製造所は、事業としては厳しい結果となったものの、そこで製造された煉瓦には「函館製造」の刻印がなされ、道内各地や東京、千島列島にも輸出されていたらしい。

 

『開拓使事業報告第三編』(明治18年11月刊行、大蔵省) pp.824-826

○煉化石及屋瓦
文化中幕府試ニ瓦ヲ製セシム製方未熟ノ為メ厳寒凍裂用フ可ラス遂ニ廃業ス
弘化三丙辰年函館商金子利吉亀田村ニ於テ瓦ヲ製ス尋テ煉化石及屋瓦ヲ製スル者アレトモ擅ニ価格ヲ定ルノミナラス製造亦少ク価自然ニ騰貴シ容易ニ買得スヘカラス屋ヲ葺ク概子木板(俗称柾木羽板木舞等ナリ)ヲ以テス
〔明治五年〕渡島国上磯郡茂辺地村近傍ヨリ煉化石及屋瓦ニ適スル粘土ヲ採リ戸切地村ノ砂ヲ和シ試製セシニ其質鞏固ニシテ実用ニ適ス因テ該村番外地三千五百二坪ヲ劃シ事務所職人部屋工場窯場等拾棟ヲ建築ス
〔七年〕函館豊川町ニ桁行十五間梁間六間ノ煉化石造倉庫四棟ヲ建築ス人其堅牢ナルヲ見テ需用甚多シ
〔八年〕冬季寒威殊ニ厳ク製造ニ従事スル能ハス姑ク中止ス
〔九年〕五月製造ニ著手シ官民ノ需用ニ供スルモ未タ他ニ輸出ノ道ナク且製造経費ヲ以テ価格ヲ算スレハ頗ル高価ニ値ルヲ以テ中止ス
〔十一年〕東京箱崎町本使物産取扱所建築工ヲ起スヲ以テ再製造ニ著手ス○六月更ニ東京ヨリ職工数名ヲ雇ヒ製造シテ東京ニ輸シ建築用ニ供ス工部省審査ニ拠レハ其製最佳トス
〔十四年〕一月茂辺地村森兵五郎工場拝借ヲ請フ乃チ許可ス抑モ此業ヲ興セシ以来未タ純益ヲ見スト雖モ函館港内外現在の官廨ハ皆此製造ニ係リ且市街石室ノ巍然タル瓦屋ノ鱗次スルハ初メ官貲ヲ捐シ価格ノ騰貴ヲ制シ築造ヲ容易ナラシメシニ由ル今其製造表左ノ如シ


茂辺地と煉瓦〜その2

国立国会図書館デジタルコレクションにて明治18年11月刊行の『開拓使事業報告 第3編』(大蔵省)が公開されていた。このサイトは大変便利。

当該報告書のp.824から「○煉化石及屋瓦」について整理されている。文化年間、幕府も瓦製造を試みたものの製法未熟により北海道の厳しい冬に耐えうるようなものを作ることがかなわなかった。一方、弘化年間以降、瓦製造を行う者が出てきたが、製造量が少なく価格が高騰。容易に購入できるような状況ではなかったらしい。

明治5年の項に茂辺地村について記載。茂辺地において煉化石、屋根瓦に適した粘土が採取されたこと及び試験製造したものが実用に足ると判断されたことから、茂辺地番外地3,502坪を割いて事務所、職人部屋、工場、窯場等、10棟を建築した、とある。


茂辺地と煉瓦

北斗市茂辺地に、かつて開拓使による茂辺地煉瓦(化)石製造所があったことは以前にも紹介したところ。

茂辺地は、この製造所が作られる前から、良い煉瓦土の採れる場所として知られていたらしい。開拓使による製造所建設に当たっては、榎本武揚らによる調査結果も影響があったものと推測されるほか、当該調査の際には、この茂辺地の粘土や煉瓦土の情報は榎本の知るところだったはず。

実際に茂辺地において、文久元年(1861年)から2年間に、3万枚の煉瓦が作られていたそうだ。

明治5年に、開拓使による茂辺地煉瓦(化)石製造所が建設される。これは明治9年に生産中止となるが、この間製造された煉瓦の品質が悪かったことに加え、主な需要地である札幌までの輸送コストの問題が大きかったようである。

明治11年に生産が再開され、この頃(再開後)に製造された煉瓦が使用されている建物が、函館市内に現存する旧開拓使函館支庁書庫及び市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)である。

設立当初の煉瓦品質が悪く、再開後の品質がなかなかのものだったらしいことに鑑みると、やはり製造に係る技術者の能力が大きく影響を与えていたのだろうと推測される。