白鬚一覧

白鬚橋下

白鬚橋近辺は墨田区、江東区、荒川区が交差する珍しいスポットである。

向島側から橋を渡ったところに、対鷗荘と呼ばれた三条実美の別邸があったとのこと。

また、橋が架かるまでこの辺りで活躍した渡しは「白鬚の渡し」又は「隅田川の渡し」として、有名だったようだ。

 

白鬚橋下

2011年11月13日撮影。荒川区教育委員会の解説は以下のとおり。

 

対鷗荘(たいおうそう)跡

対鷗荘は白鬚橋西詰の地に明治6年(1873)、明治の元勲三条実美の別邸として建築された。

   いそがしき つとめのひまを

   ぬすみ来て 橋場の里の

   月をみるかな

三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。

橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。

荒川区教育委員会

 

 

これより東へ約20メートル

橋場の渡し

対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。

『江戸名所図会』によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。

大正3年(1914)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。

荒川区教育委員会

 

 


木母寺と梅若塚

東白鬚公園内の木母寺には梅若塚を始め、由緒ある碑がたくさん残されている。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。「隅田川旧跡 梅若塚」の石標。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。三遊塚。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書とのこと。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。天下之糸平の碑。都内で最も大きい碑。

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。その他たくさんの碑が並ぶ。

 

境内の諸碑についての墨田区教育委員会の説明は以下のとおり。

 

境内の諸碑

所在 墨田区堤通2丁目16番1号 木母寺内

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など30基の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。

◆華笠文京翁碑

幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に飛んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。

◆天下之糸平の碑

高さ5メートル、幅3メートルを越す都内一の句碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

◆三遊塚

三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書です。

◆題隅田堤桜花(隅田堤桜花に題す)の詩碑

亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は9歳の少年、清水孝の書です。文政12年建立。

 平成8年3月

墨田区教育委員会

 

木母寺と梅若塚

2011年10月16日撮影。ごつごつとした岩の固まりのようなものが梅若塚とのこと。

 

梅若塚の沿革

「たづね来て問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。

明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(同22年)佛式に復帰しました。

現在地に遷座したのは昭和51年で旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

 


隅田川神社と水神の森

東白鬚公園を散歩していると、公園のすぐ横に現れるのが隅田川神社である。鳥居は公園入り口のマンションの間にある。

かつては100メートルほど異なる場所にあったものが、移設されたとのこと。
また、この近辺に「水神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森が広がっていたことなど、現在の様子から想像するのはかなり難しい。

 

隅田川神社

2011年6月19日撮影。公園からすぐの境内入り口。この鳥居とは別に、墨堤通り沿いのマンションの間にも鳥居がある。

 

隅田川神社

2011年6月19日撮影。境内の様子。

 

隅田川神社

2011年6月19日撮影。社殿。

 

墨田区教育委員会設置の説明板の内容は以下のとおり。

 

水神の森跡

住所 墨田区堤通2丁目17番 隅田川神社

荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。

昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。

水神の森は、『江戸名所図会』にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。

その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も100メートルほど移されて現在地に鎮座しました。

平成19年3月

墨田区教育委員会

 


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