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北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

「北海道知事  田中敏文書」とあり。

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑

  • 2018/6/6 撮影。

碑銘

北海道水田発祥の地碑

水田発祥由来
亀田郡大野村字文月押上のこの地に元禄五年農民作右エ門なる者南部の野田村から移つて人々の定着は米にあるとして地を拓し自然水により四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した爾来消長あつたが後「御上田」と称して現在に及んでいる 先人未踏の北辺に今日道産米三百万石の基礎はかうして発祥したものである
渡島支庁長 岡武夫書
昭和二十四年八月建之

北斗市教育委員会の説明板

北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地碑
蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661〜72)、貞享2年(1685)、元禄5年(1692)の記録がある。水田発祥の地碑は、元禄5年の「松前志」の記録と村民の伝承によって昭和24年(1949)に建てられた。
碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約15アール)を開田し、道米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
作右衛門の水田は2、3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2年(1805)には箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
嘉永3年(1850)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元年(1854)以降、米作りはようやく安定した。明治6年(1873)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったのである。
平成18年3月吉日
北斗市教育委員会

『松前志』

北海道大学北方資料室蔵帝国図書館所蔵本写

松前志

東京国立博物館蔵

松前志

北大蔵の写本よりもこちらの方が読みやすい。北斗市教育委員会の説明板に「「松前志」の記録」とあるのは『松前志巻之六』の冒頭に出てくる、

元禄五年東部亀田ニテ作左衛門ト云モノ新田ヲ試ミケレド二三年ニシテ廃レタリ

のことと思われる。なお、碑銘、説明板で「作右衛門」と紹介されている人物は、『松前志』では(北大、東国博ともに)「作左衛門」となっていた。

上記の記載に続けて、辺幾利地(へきりち)についても言及されており、ほぼ同時期に旧上磯地区においても開田が試みられていたらしい。

同七年東部辺幾利地ニテ墾田ヲ試ミシカ實リテ新米ヲ藩主ヘ呈セシコトアリ

次いで江差についての記載があり、この時期の道南各地で稲作が試行されつつあったことがわかる。

場所

その他


澤田米穀店(北斗市中央)

澤田米穀店

澤田米穀店

澤田米穀店(北斗市中央)のポイントがたまりました。第1号とのことで、大変恐縮しております。精米したての米は、炊きあがり時の輝きが違います。もちろん味も。そして、米の減っていく速度は、加速します。

同店、店内もおしゃれですが、米袋もおしゃれ。紙製です。

 

 

 

 


稲刈り

稲刈り

よく実った稲穂は、みごとな黄金色で神々しさすら感じます。刈り取り前の稲穂を眺めるのは、毎年のこの時期の楽しみのひとつであります。「黄金の国」とは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』における日本の記載で、当時産出量の多かった金に基づくものと思いますが、秋に実る一面の稲穂の田園風景の方が、まさに「黄金の国」にふさわしいように思う次第です。

まもなく稲刈りも終わり、少しすると雪化粧となります。


北海道水田発祥の地碑

北海道水田発祥の地。現在では、「ふっくりんこ」の生まれ故郷。過去から現在、そして未来、北海道の米の歴史は、いつもここから。

碑の内容は次のとおり。

水田発祥由来

亀田郡大野村字文月押上のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って人々の定着は米にあるとして地を拓し自然水により四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した 尓来消長あったが後「御上田」と称して現在に及んでいる 先人未踏の北辺に今日道産米三百万石の基礎はかうして発祥したものである

渡島支庁長 岡武夫書

昭和二十四年八月 建之

 

2012年9月15日訪問。

北斗市教育委員会による説明板の内容は次のとおり。

 北海道水田発祥の地碑

蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661~71年)、貞享2年(1685年)、元禄5年(1692年)の記録がある。水田発祥の地碑は、元禄5年の『松前志』の記録と村民の伝承によって昭和24年(1949年)に建てられた。

碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約15アール)を開田し、産米十俵(現在の2俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。

作右衛門の水田は2、3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2年(1805年)には箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。

嘉永3年(1850年)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元年(1854)以降、米作りはようやく安定した。明治6年(1873年)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったのである。

平成18年3月 北斗市教育委員会


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黄金色の田んぼ2012

収穫直前の田んぼは毎年美しい黄金色に染まる。かつて日本が「黄金の国」と称された理由もわからなくはない。まさに黄金の風景。

ちなみに、田んぼの奥に見えるのは、現在建設中の北海道新幹線の高架。あっという間に完成である。

毎年楽しみにしている稲穂の風景、10年後も20年後も変わらずにあってほしい。

2012年9月15日撮影。


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