茂辺地一覧

『延叙歴検真図』と『北海道歴検図』

幕府の役人、目賀田守蔭がまとめた『延叙歴検真図』という鳥瞰図。全道、樺太までの調査結果が鳥瞰図として掲載されており、北斗市も有川村、矢不来、茂辺地村、當別村、三石村の記載があります。

明治4年に開拓使からの要請を受けて、『延叙歴検真図』を清書して提出したのが『北海道歴検図』らしいです。

※2016/12/25 アクセス。


『蝦夷地名考并里程記』のなかの上磯地名

上原熊次郎(文政7)『蝦夷地名考并里程記』に上磯(現北斗市)の地名も出てきており、アイヌ語を語源とする旨記載されています。諸説あるのでしょうが、アイヌ語源というのは理解しやすい気がします。

東京国立博物館デジタルライブラリーにて『蝦夷地名考并里程記』の画像データも公開されており、該当箇所は7ページ目となります。

『上磯町史 上巻』の読み下しによれば、

 当別:夷語トヲウンベツなり。沼の有る川と譯す。トツは沼の事。ウンとは生するの訓にて有と申事なり。此川の奥に沼有る故号くという。

茂辺地:夷語ムーベツなり。塞る川と譯す。ムーとは塞と申事。ベツは川なり。此川餲水亦は仕化の節、水口塞る故、地名になすと云う。

戸切地:夷語ベケリベツなり。あきらかなる川と譯す。ベケリとは明らかと申事。ベツは川なり。この川の流れ清き故、地名になすと云う。

この戸切地の項には、有川について「此村内(戸切地)東の方の枝流を有川といふは和語なるべし。則、戸切地川の枝川なり」とある。

久根別(ク子ベツ):夷語クン子ベツなり。則、濁川と譯す。クン子は黒い又濁るの訓にて、ベツは川なり。此川水常に濁り流るゝ故、地名になすと云ふ。

七重:夷語はナァナイなり。則多く渓間有と云ふ事。ナアとは幾重等もと申事。ナイは渓又は沢等と申事なり、此辺渓沢の多く在故、地名になすと云ふ。

『上磯町史 上巻』p.511

蝦夷地名考并里程記

蝦夷地名考并里程記

画像は、上記東京国立博物館デジタルライブラリーで公開されている『蝦夷地名考并里程記』(2016/12/21 アクセス)です。


松宮観山『蝦夷談筆記』

江戸中期の儒学者、松宮観山の『蝦夷談筆記』に茂辺地、富川、戸切地のアイヌ居住について記載有。

『上磯町史 上巻』(1997年,上磯町)p.510に当該箇所の読み下しが載っています。

一、蝦夷地と松前地との境の義しかと限は無御座候。西在郷は田澤、乙部、東在郷ちこない、しやつかり、茂辺地、富川、へけれ地辺迄、人間 日本人の事を云 と入交り、蝦夷人居住仕候。しやも 日本人の事 の中に交り候て住居仕候義好不申哉、段々蝦夷地へ引入候て、近年は少く罷有、田澤、乙部杯のゑぞは疱瘡疹に死亡仕、只今は大方絶申候事

茂辺地、富川、戸切地のあたりでも蝦夷人が和人と混住していたものの、混住を嫌い、蝦夷人は蝦夷地に移っていったため少なくなった、といったことのようです。

なお、『蝦夷談筆記』の写本データが、早稲田大学図書館古典籍総合データベースに掲載されており、上記箇所(2ページ目が当該箇所)についても確認できます。


人形装飾付異形注口土器

昭和7年に茂辺地遺跡で出土した重要文化財の人形装飾付異形注口土器(ひとがたそうしょくつきいけいちゅうこうどき)、『上磯町史 上巻』(平成9年)には国立歴史民俗博物館収蔵とありますが、現在は、上野の東京国立博物館にあるようです。なお、レプリカは、新函館北斗駅併設の北斗市観光交流センター1階のイベントスペースで展示されています。

人形装飾付異形注口土器

※画像出典:東京国立博物館

参考

 


茂辺地漁港

茂辺地漁港

全国に2,909箇所ある漁港のなかで小生が最も好きな漁港のひとつが茂辺地漁港、正確には「北斗漁港(茂辺地地区)」であります。2,179ある第1種漁港のなかでも、個人的には、最も第1種らしい漁港、第1種にふさわしい力強さと安定感を感じさせる漁港、そのように感じている次第であります。

釣りに来たのですが、まったく釣れず、風はまだまだ冷たく、早々に退散いたしました。

 

 


茂辺地と煉瓦〜その3

先日も取り上げた『開拓使事業報告第三編』。国立国会図書館ウェブサイトで公開されており、茂辺地の煉瓦製造に係る箇所を以下のとおり紹介させて頂く。なお、概ね現在の字体で入力したが誤りについてご指摘いただければ幸甚(表の数値については手間を省いてアラビア数字とした。)。やはり開拓使側が「一定の成果」を強調しているような印象を受けるのは誤っているのだろうか。ちなみに『上磯町史 下巻』p.294に記載の『開拓使事業報告第三巻』とは『開拓使事業報告第三編』の誤り。

茂辺地の煉瓦製造所は、事業としては厳しい結果となったものの、そこで製造された煉瓦には「函館製造」の刻印がなされ、道内各地や東京、千島列島にも輸出されていたらしい。

 

『開拓使事業報告第三編』(明治18年11月刊行、大蔵省) pp.824-826

○煉化石及屋瓦
文化中幕府試ニ瓦ヲ製セシム製方未熟ノ為メ厳寒凍裂用フ可ラス遂ニ廃業ス
弘化三丙辰年函館商金子利吉亀田村ニ於テ瓦ヲ製ス尋テ煉化石及屋瓦ヲ製スル者アレトモ擅ニ価格ヲ定ルノミナラス製造亦少ク価自然ニ騰貴シ容易ニ買得スヘカラス屋ヲ葺ク概子木板(俗称柾木羽板木舞等ナリ)ヲ以テス
〔明治五年〕渡島国上磯郡茂辺地村近傍ヨリ煉化石及屋瓦ニ適スル粘土ヲ採リ戸切地村ノ砂ヲ和シ試製セシニ其質鞏固ニシテ実用ニ適ス因テ該村番外地三千五百二坪ヲ劃シ事務所職人部屋工場窯場等拾棟ヲ建築ス
〔七年〕函館豊川町ニ桁行十五間梁間六間ノ煉化石造倉庫四棟ヲ建築ス人其堅牢ナルヲ見テ需用甚多シ
〔八年〕冬季寒威殊ニ厳ク製造ニ従事スル能ハス姑ク中止ス
〔九年〕五月製造ニ著手シ官民ノ需用ニ供スルモ未タ他ニ輸出ノ道ナク且製造経費ヲ以テ価格ヲ算スレハ頗ル高価ニ値ルヲ以テ中止ス
〔十一年〕東京箱崎町本使物産取扱所建築工ヲ起スヲ以テ再製造ニ著手ス○六月更ニ東京ヨリ職工数名ヲ雇ヒ製造シテ東京ニ輸シ建築用ニ供ス工部省審査ニ拠レハ其製最佳トス
〔十四年〕一月茂辺地村森兵五郎工場拝借ヲ請フ乃チ許可ス抑モ此業ヲ興セシ以来未タ純益ヲ見スト雖モ函館港内外現在の官廨ハ皆此製造ニ係リ且市街石室ノ巍然タル瓦屋ノ鱗次スルハ初メ官貲ヲ捐シ価格ノ騰貴ヲ制シ築造ヲ容易ナラシメシニ由ル今其製造表左ノ如シ


茂辺地と煉瓦〜その2

国立国会図書館デジタルコレクションにて明治18年11月刊行の『開拓使事業報告 第3編』(大蔵省)が公開されていた。このサイトは大変便利。

当該報告書のp.824から「○煉化石及屋瓦」について整理されている。文化年間、幕府も瓦製造を試みたものの製法未熟により北海道の厳しい冬に耐えうるようなものを作ることがかなわなかった。一方、弘化年間以降、瓦製造を行う者が出てきたが、製造量が少なく価格が高騰。容易に購入できるような状況ではなかったらしい。

明治5年の項に茂辺地村について記載。茂辺地において煉化石、屋根瓦に適した粘土が採取されたこと及び試験製造したものが実用に足ると判断されたことから、茂辺地番外地3,502坪を割いて事務所、職人部屋、工場、窯場等、10棟を建築した、とある。


茂辺地と煉瓦

北斗市茂辺地に、かつて開拓使による茂辺地煉瓦(化)石製造所があったことは以前にも紹介したところ。

茂辺地は、この製造所が作られる前から、良い煉瓦土の採れる場所として知られていたらしい。開拓使による製造所建設に当たっては、榎本武揚らによる調査結果も影響があったものと推測されるほか、当該調査の際には、この茂辺地の粘土や煉瓦土の情報は榎本の知るところだったはず。

実際に茂辺地において、文久元年(1861年)から2年間に、3万枚の煉瓦が作られていたそうだ。

明治5年に、開拓使による茂辺地煉瓦(化)石製造所が建設される。これは明治9年に生産中止となるが、この間製造された煉瓦の品質が悪かったことに加え、主な需要地である札幌までの輸送コストの問題が大きかったようである。

明治11年に生産が再開され、この頃(再開後)に製造された煉瓦が使用されている建物が、函館市内に現存する旧開拓使函館支庁書庫及び市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)である。

設立当初の煉瓦品質が悪く、再開後の品質がなかなかのものだったらしいことに鑑みると、やはり製造に係る技術者の能力が大きく影響を与えていたのだろうと推測される。


飽きない素朴な味の「みそぱん」(北斗市茂辺地の菓匠一福)

茂辺地にある老舗和菓子店「菓匠一福」は、明治38年の創業であり、営業している店としては函館周辺で最も古い和菓子店である。同店に次いで古いのが同じく北斗市にある金丸菓子舗(本町)であり、いずれも、素材と製法に妥協がない昔ながらの味を今に伝えている。

さて、茂辺地の一福と言えば「みそぱん」が有名である。「ぱん」とは言うが、手にしてみると非常に硬く、噛みきるにもかなりの力が必要となる。この噛み応えが堪らない。そして、味噌の甘さが、なんとも素朴で飽きのこない味。熱い茶が欲しくなってしまう。

ついついて食べ過ぎてしまう「みそぱん」だが、腹に入ると急激に膨らむ(ような気がする)。昔ながらのなつかしい味をぜひとも茂辺地にて味わっていただきたい。

 

■菓匠一福
所在地:北斗市茂辺地2丁目5-54
電話:0138-75-2035


矢不来天満宮と茂別館跡

北斗市茂辺地のまちはずれ、茂辺地川を渡った丘の上にある矢不来天満宮。矢不来天満宮入口の鳥居手前には中世の城であった茂別館の説明板がある。

現在の矢不来天満宮周辺からも察せられるが、川を挟んだ小高い丘になっており、城としては最適だったのではないだろうか。

 

 

 

 

2013年3月17日訪問。

 

国指定史跡茂別館跡

1 所在地及び地域 北海道北斗市矢不来131-1ほか

2 指定年月日 昭和57年7月3日指定

3 指定理由

ア 基準

特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準史跡2(城跡)による。

イ 説明

茂別館は、嘉吉3年(1443)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。

北海道の室町時代の和人の館跡のうち志苔館跡・大館跡・上之国勝山館及び上之国花沢館の4件は既に指定されているが今回これに茂別館を加え、蝦夷島中世史の解明に資そうとするものである。

文部科学省・北斗市

 


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