荒川区一覧

大黒天経王寺

谷中銀座を日暮里駅方向に進み、階段を上ったところにあるのが経王寺。幕末の動乱の痕を残している。

 

写真は2012年2月19日撮影。

大黒天経王寺 

荒川区教育委員会による説明は以下のとおり。

 

大黒天経王寺

経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。

慶応4年(1868)の上野戦争のたき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。

荒川区教育委員会

 

荒川区指定文化財 経王寺山門 付門

天保7年(1836)に、桶屋安五郎らが願主となり建立された。切妻造、桟瓦葺、総欅造の薬医門で、脇に瓦屋根付きの板掘と潜り戸を設け、西側には門番所が連結される。間口寸法(親柱間)10尺9寸、奥行寸法(親柱・控柱間)7尺6寸と、堂々とした規模をもち、脇に付設された門番所と併せて日暮里の寺町地区を象徴する「辻」の景観を形成する貴重な建造物である。また、慶応4年(1868)の上野戦争の際のものと伝えられる弾痕が残っており、地域の歩んだ歴史も刻まれている。

 


日ぐらしの布袋、修性院

修性院。谷中七福神の一つ「日ぐらしの布袋」で知られる。

修性院

2012年2月19日撮影。

 

日ぐらしの布袋(修性院)

修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。

江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。

境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣幘碑がある。

荒川区教育委員会


青雲寺と馬琴の筆塚

花見の名所として大いに賑わったと言われる荒川区の青雲寺。境内には大量の筆を消費したとされる馬琴の筆塚もある。

青雲寺と馬琴の筆塚

青雲寺と馬琴の筆塚

いずれも、2012年2月19日撮影。

荒川区教育委員会による説明は以下のとおり。

滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)

青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(1751〜64)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれたきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。

現在、谷中七福神のひとつ「恵美寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年 1809)をはじめ、硯塚の碑(寛政10年 1798)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。

荒川区教育委員会

 

滝沢馬琴筆塚の碑(青雲寺)

戯作者滝沢馬琴(1767〜1848)は精力的な著作活動のうちに多量の禿筆(使い古しの筆)を残した。これを供養するため、文化7年(1810)に築いたのが筆塚である。文化6年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちを業績が記されている。題字の「瘞聿冢名」は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷棭斎筆。由来は儒学者亀田鵬斎が撰文し、自ら筆をとった。日暮里と文化人とのかかわりを知る上で貴重な碑である。

 


石浜神社

白鬚橋を渡り荒川区に入ってすぐのところにあるのが石浜神社。

相当な由緒ある社とのこと。

 

石浜神社

2011年11月13日撮影。駐車場側から境内入り口の石段。

 

石浜神社

2011年11月13日撮影。社殿。

 

石浜神社

2011年11月13日撮影。

荒川区教育委員会の説明は以下のとおり。

 

石浜神社と隅田の渡し

ここより北方に石浜神社がある。石浜神社は聖武天皇の神亀元年(724)に創祀され、中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また朝日神明宮とも称し、伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。

隅田の渡しは、平安時代の編纂物の『類聚三代格』や、歌物語である『伊勢物語』にも記される渡しで、この辺りは古くから交通の要衝の地として賑わいをみせていた。

石浜神社境内には、隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」(区指定文化財)が残る。

荒川区教育委員会

 

真先稲荷と田楽茶屋

真先(崎)稲荷は、天文年間(1532〜1554)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。

江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦7年(1757)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、おおいに繁盛した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。

荒川区教育委員会

 

 


白鬚橋下

白鬚橋近辺は墨田区、江東区、荒川区が交差する珍しいスポットである。

向島側から橋を渡ったところに、対鷗荘と呼ばれた三条実美の別邸があったとのこと。

また、橋が架かるまでこの辺りで活躍した渡しは「白鬚の渡し」又は「隅田川の渡し」として、有名だったようだ。

 

白鬚橋下

2011年11月13日撮影。荒川区教育委員会の解説は以下のとおり。

 

対鷗荘(たいおうそう)跡

対鷗荘は白鬚橋西詰の地に明治6年(1873)、明治の元勲三条実美の別邸として建築された。

   いそがしき つとめのひまを

   ぬすみ来て 橋場の里の

   月をみるかな

三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。

橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。

荒川区教育委員会

 

 

これより東へ約20メートル

橋場の渡し

対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。

『江戸名所図会』によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。

大正3年(1914)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。

荒川区教育委員会

 

 


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