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函館市

旧イギリス領事館(開港記念館)

箱館にイギリス領事館が置かれたのは、安政6年(1859年)日本最初の貿易港として開港した時のことで、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。文久3年(1863年)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、数度の火災にあった。 この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913年)に竣工したものであり、昭和9年(1934年)の閉鎖まで領事館として使用されていた。
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函館八幡宮

「社伝」によれば、文安2年(1445年)、河野政通公が蝦夷地に渡来し、現在の元町公園辺りに館を築いた時、その東南のすみに八幡神を鎮祭したのが始まりといわれる。
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碧血碑

箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地、箱館での旧幕府脱走軍戦死者の霊を祀っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年(1875年)、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。 碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公 然と祀るには支障があったことが推測される。 なお、 碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。
函館市

柳川熊吉翁の碑

柳川熊吉は、安政3年(1856年)に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の手配に貢献した。明治2年(1869年)、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め、同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4年(1871年)、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年(1875年)、 旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2年(1913年)、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。
函館市

石川啄木一族の墓

明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40年(1907年)5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言うほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年(1912年)4月病魔におかされ、27歳の生涯を東京で閉じた。大正2年(1913年)3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月、彼の後を追うかのようにこの世を去った。
函館市

宮崎郁雨と影二の歌碑

宮崎郁雨は明治18年(1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年(1906年)に文芸結社苜社ができると、その同人となった。翌40年(1907年)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたってあたたかい援助を続け、明治42年(1909年)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。 郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年(1962年)に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年(1968年)に函館図書裡会が建立した。 砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7年(1918年)に函館で創刊された文芸誌 「銀の壺」の同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年(1921年)、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。 この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。
七飯町

大沼国定公園

大沼は、駒ヶ岳の山頂部分が噴火により大崩落を起こして出来た堰止め湖。大沼・小沼・蓴菜沼の3湖の中で最も大きく、島数が多いため変化に富んでいます。周囲約20.9km、面積5.49km2、最も深いところで水深13.6mです。
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立待岬

この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ。すなわち、ここで魚を捕ろうと立って待つ)に囚むという。 18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。 現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。 近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。
函館市

与謝野寛・晶子の歌碑

市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の雅号に由来する図書裡会が、棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年(1931年)に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を立待岬に建立した。 撮影:2022年9月11日 (...
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豊川稲荷神社

文久年間(1861年~1864年)、付近の繁盛を願って有志が創立したもので、当時この付近は新築島(しんつきしま)と呼ばれていたが、この神社ができてから豊川町と称するようになった。 昭和9年(1934年)の大火まで4回類焼しており、現在の神社は昭和15年(1940年)に建てられたもので、海に向いて建っていた当時とは向きが逆である。 古くから商売繁盛の神様として多くの人々から崇められ、魚市場や蓬莱町(現宝来町)見番芸妓一同が献納した石灯籠などがそれを物語っている。
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